運転手デビューの頃を覚えていますか? 「海コンお姉さん」の初々しかったあの頃のエピソード
2トン車から4トン車へステップアップしたものの……
2トン車から4トン車に乗るようになり、走る距離も荷物もさまざまに変わり、ドライバー履歴の中で一番ハードだった頃のことです。 関西~富山を行ったり来たりのコースで、おまけに高速は厳禁という会社でした。毎日ベタで6~10時間走り、それに加えて「プラス・マイナス」(積み・降ろしのこと)という内容でした。当然のように睡眠不足となり、それがたたって人生で二度目の胃痙攣が発症しました。 その日は大阪出発の福井マイナス、滑川プラスで、大阪に戻るという仕事内容でした。いつもに比べてまったりのコースです。というのも、病気で入院していた先輩が復帰するにあたり、体を馴らすために私の横乗りでツーマンという話になっていたからです。 本当なら、後輩である私から「無理せんといて下さいね」と優しい言葉の一つもかけてあげるべきシーンなんですが、顔面蒼白でしょ、痛さで顔も歪んじゃってる状態でしょ、逆に心配されて「運転代わるわ」と言われる始末でした(汗)。 もう痛みと寝不足とで限界だったんですね。プライドや意地があったって胃の激痛には勝てません。素直に「すいません。京都の観月橋あたりまでお願いします」と助手席で少し仮眠させてもらうことにしました。 交代した場所から観月橋まで1時間チョイ。少し寝かせてもらったらきっと薬も効いてくるはず!そう思いながら助手席で意識不明になり、目が覚めた時には福井に現着していたんですけどね(汗)。 驚いたのと恥ずかしいのとで、「なんで起こしてくれへんかったんですか~?」とか「スイマセン、スイマセン!」とか、ワアワア言っている私に、「人間誰かて体調悪い時はあるんや!頑張りすぎて入院になったらどないすんねん。お母ちゃん泣くで!」 そうでした。子供の時からケガばかりしていたので、ケガをしないように心がけていたものの、健康管理はできていませんでした。
先輩運転手の言葉に、ゆで感激!
「俺ら運転手は身体が資本や!しんどい時は助け合ったらええやないか」「アンタも俺が休んでる間、このコース走ってくれてたんやろ?お互いさんや」と言ってくれた。 その言葉が嬉しくてね。優しい言葉をかけてくれたのも嬉しかったんですが、「俺ら……」と言って、その言葉に「私も仲間に入ってる」ってことが何よりも嬉しくてね。何度も何度も心の中で「俺ら運転手は……」って言葉の意味を確認していました。 大阪から福井現着まで寝かせて頂いたのと、その言葉のおかげで胃痙攣の痛みもいつのまにかどこかに飛んでいってしまい、その後はいつもよりうんと頑張ってる自分がいました。 福井で荷降ろしを完了した後、富山県滑川で積み込みをし、途中でオムライスなんかを食べて大阪まで軽やかに戻ってこられました。もちろん福井からは先輩に運転してもらうことはありません。大阪に無事に戻り、先輩に「福井まで運転代わって頂いてありがとうございました」と頭を下げて帰りました。 次の日、私は京都の現場降ろしで、先輩はまた北陸向けの便に同乗することになっていたので、ツーマンはその日一日で終了しました。 後日、無事に復帰された先輩と、とある配達先で一緒になった時「自分あの時すごいイビキやったなぁ」と、思い出したように笑われました。「あんだけ痛がっていたのに、すぐ寝れるってどないやねん」とまた笑われました。しかも地声が大きな先輩のおかげで、近くにいた他社のドライバーにも聞こえたようです。 その声がもう少し小さかったら、私はいつまでも「優しい先輩」と敬意を表していたでしょう。