住む場所は「幽霊屋敷」、到着したその日から緊急手術…台湾に派遣された脳外科医を待っていた「過酷すぎる勤務」
初の海外生活
5歳、3歳、2歳、1歳(当時)の子どもたちを抱え、私にとっては初の海外生活だった。1981年8月1日、私たち家族は台北に向けて飛び立った。3時間のフライトのあと降り立った空港で見た満月は、今でも忘れない。それから2時間ほど車に揺られ、彰化市に着くころには、すでに夜も更けていた。 案内された家は19世紀末ごろ建てられた洋館で、暗闇のなかではまるで幽霊屋敷だった。晋の職場となる病院は、この家から自転車でわずか10分の場所に位置している。前任の医師はすでに英国に渡航したあとだったため、晋はすぐ診察で忙殺されることになった。当時の文章が残っている。 私は8月3日からさっそく朝のconference(病状検討会)に出席。もうすでに手術を必要とする患者が待っておりました。翌日は2つの大きな手術。これが終ってほっとしたところへ、10歳の女の子が頭蓋内血腫で意識のない状態で担ぎこまれ、すぐに緊急手術。朝9時に手術室に入って、出て来た時はもう夜の10時を回っていました。 (『十字架の言』1981年10月15日発行号) 習ったといっても、彼の中国語は完璧ではない。ときに英語のわかる看護師に通訳をしてもらいながら診断や手術をこなしたという。 困ったのは食べ物だった。台湾は暑い。晋は当初、日本から持参した蕎麦など、さっぱりしたものばかり食べていたが、体調を崩して寝込んでしまった。その反省から、昼は自宅で2時間の休憩をとり、脂っこい台湾料理も食べるように心がけると、調子を崩すことはなくなった。 「郷に入っては郷に従えだね」 ふたりでこう納得したものだ。
若井 克子