サッカー日本代表と50年以上前に度々対戦 板倉滉所属のボルシアMGは「教師のような存在」
【1969年に来日】 ボルシアMGは1960年代から70年代前半にかけてはバイエルン・ミュンヘン(バイエルン)と並ぶ西ドイツ(当時)を代表する強豪だった。 西部ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置するメンヘングラードバッハは人口27万人ほどの地方都市。強豪クラブがなかったら、その都市名を知る人も少なかったことだろう。 ボルシアMGも、南部バイエルン州の州都ミュンヘン(人口約150万人)の名門バイエルンに比べれば小規模なクラブにすぎなかった。 そのボルシアMGを強豪クラブに育て上げたのが、第2次世界大戦後の西ドイツを代表する名将のひとりヘネス・バイスバイラーだった。 ケルン体育大学で指導者育成に携わったのち、1964年にこの地方クラブの監督に就任すると、数多くの名選手を見出だしてブンデスリーガきっての強豪に育て上げたのだ(その後、1976年からは1.FCケルン/ケルンの監督としても活躍)。 1969年6月、そのボルシアMGが来日した。その翌シーズン(1969-70年)にボルシアMGはブンデスリーガ初優勝を飾ることになる。1967年にブラジルのパルメイラス、1968年にイングランドのアーセナルが来日していたが、西ドイツの強豪の来日はこれが初めてのことだった。 西ドイツは1966年のイングランドW杯で準優勝。その後、1970年のメキシコW杯で3位、1974年の自国開催の大会で2度目の優勝を飾ることになる。当時の世界最強国だった。 また、1964年の東京五輪を前に、日本は西ドイツのデットマール・クラマーを特別コーチとして招聘。日本代表は毎年のように西ドイツに遠征して強化を図っていた。日本サッカー界にとってはまさに教師のような存在だった西ドイツから、初めて強豪クラブが来日したのである。 ボルシアMGには西ドイツ代表級の選手が何人もいたが、なかでも注目を集めたのがDFのベルティ・フォクツとMFのギュンター・ネッツァーだった。 ネッツァーは当時24歳、フォクツは22歳。ともに西ドイツ代表の若手のホープ的存在だった。ちなみに、ヴォルフガング・オフェラート(ケルン)はネッツァーより1歳年長で、フランツ・ベッケンバウアー(バイエルン)は1歳年少。いずれも、ドイツが1945年に第2次世界大戦で敗れた直後の貧しい時代に成長した同世代の選手たちだった。 ベッケンバウアーはすでに1966年のイングランドW杯で活躍し、オフェラートも同大会に出場しているが、ボルシアMGのふたりは1970年代に入ってから活躍することになる。 ネッツァーは1972年の欧州選手権で活躍。とくに、敵地ウェンブリーで行なわれた準々決勝のイングランド戦でプレーは圧巻だった。ロングレンジの柔らかなパスを駆使するネッツァーのゲームメークは世界を魅了した。 一方、フォクツがその名を轟かせたのは1974年西ドイツW杯の時だった。オランダとの決勝戦でフォクツは相手の絶対的エース、ヨハン・クライフを密着マーク。西ドイツの優勝に大きく貢献した。