禅を通してゴルフを考える。「平常心」は得ようとして得るものではない
複雑化する現代社会。禅の教えから学ぶことは多く、ゴルフに通じるものも多い。2024年3月12日号の「週刊ゴルフダイジェスト」では、メンタルトレーナーの赤野公昭氏が師匠でもある禅僧の藤田一照氏と対談する様子を掲載している。メインテーマは「平常心」。誌面には掲載しきれなかったパートをみんゴルでお届けしよう。
平常心の正体は“水が水している”こと
藤田 大自然の働きはどこでも常に発揮されていて、すべてのものに行き渡っています。たとえば冬が来たら木は葉を落とすけど、そのうち春が来れば芽が吹いて、一斉に花が咲く。こういうことは、木自身が単独でバラバラにやっていることではなく、木に大自然の働きが表れているんです。他の物もすべてそうです。禅ではこの大自然の働きのことを「心(しん)」と呼んで、「一切法一心(すべてのものは一つの心の現れ)」といったりします。 こういう心の観点から見ると、何が起きても、たとえば今年元旦の能登地震という自然災害、翌日の飛行機事故など、私たちにとっては災害であり大事件で、あんなことなければいいのに、なんで? と思うようなことも大自然にとっては平常そのものなんです。起こるべくして起こっているだけ。心にとってはすべてが平常という意味で「平常心」と言うのです。だから、私個人の心理状態がいつでも穏やかで何が起きても動じないというような、ちっちゃな話ではなくて、大自然の働きである平常心に随順して生きるのが道である、というのが「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」の意味するところになります。 赤野 この私が平常心を得ようとすることが道という意味ではないんですね。 藤田 何が起きても水は水で変わりがないですが、そのときどきの表情はあります。津波のとき、さざ波のとき、凪いでいるとき……。いろいろ表情はありますが、どんなときも変わらず水です。平常というのはつまり、“水が水している”ということ。同様にわれわれの心もいろいろな表情を表しながら刻々と変化しています。そのときどきの心の状態は常に変わるから、それが絶対のものではない。仮のものだけれど、そのときはそれ以外の在り方はないから「仮でありつつ絶対である」というふうに禅では言います。心は自分の思い通りになるようなしろものではない。“I have a mind” ではなく“Mind has I”。私が小さな心を持っているのではなく、大きな心の1つの表れが私である、というくらいに思ったほうがいい。平常心も私の力でゲットするような特殊な状態ではなく、個人を超えて個人を生かしているようなもっと大きな働きのことだという洞察が、結果として私に平静な心をもたらすのです。 赤野 いろいろなお話をいただき、「平常心」の本来の姿が見えてきた気がします。 藤田 禅は、パラドックスみたいなことを常に出してきます。たとえば、私たちが望むような心の在り方は、それを目指したら逆に遠ざかるようになっている。目標を立てて、ある方法を講じてそれを達成しようとすると緊張が生じてうまく動けなくなってしまうように。 赤野 僕が師事した「禅ゴルフ」のジョセフ・ペアレントさんの教えでは “心は空だ” と。その空に、思考という雲が浮かんできたり、雷が起きたりすると。 藤田 ビッグマインドとスモールマインドの話ですね。スモールマインドは性質として右往左往する。シンキングマインドもそうです。右往左往をやめなければと思うこと自体がシンキングマインドですから、そういう思いに気づくだけで、むしろそのままにしておくと自ずと静まってくるという道理があります。 赤野 そのままにしておけば、それはいずれ消えていくんですね。 藤田 思考に左右されないで、いいパフォーマンスができればいいんです。僕は「思考の関節をはずす」というような言い方をします。思考があっても邪魔にならない。ビッグマインドというのは、海の表面はいつも動揺していますが、水は変わらず水しています。波と水は次元が違っている。波は水が変化している“状態”ですが、水は状態がどう変わろうと関係ないですよね。 赤野 しかし、シンキングマインドでいっぱいになっていくので、どんどん混乱していきます。 藤田 それがシンキングマインドの特徴です。どこまでも拡散していく性質がある。ある観念がポッと浮かぶと、そこから連想してどんどん広がっていくんですよ。不安がさらに不安を呼んだり、喜怒哀楽のようなものを「何とかしよう」と思うと、その時点でまたシンキングマインドになってずーっと勝手に続いていくんです。 先ほど、心は空だという話がありましたが、平常心は、いろんな雲が形を変えながら浮かんでいても全然気にしない青空にしばしばたとえられます。「長空不礙白雲飛」という禅の言葉があって、青空は白い雲が飛ぶのを邪魔としない、どんなに現れたり消えたりしても邪魔にならない。長空か白雲のどっちかということではなく、長空と白雲が互いに妨げ合わずにあるというのが平常心です。 赤野 いかに自然の働きそのままを感じられる自分自身になっていくかということですよね。 藤田 起こることは起こっていることとしてきちんと受け入れる。 赤野 どうしても、もっと平常心になりたいとか、もっと集中した自分になりたいと、自分を作ってしまうのが難しいところです。 藤田 自然のなかには、調和に向かっていつも戻ろうとする働きがあるから、それを信じて任せきること。自分が、自分で、と勝手にかきまわさない。禅には老荘的な無為自然の傾向が強いですが、そこは私が好きなところです。 赤野 ゴルフでもいかに自然にあるがままプレーするか。 藤田 いきなりあるがままというのは実践的には少し難しいので、数息観なり随息観なりの基本的な瞑想法を稽古していくといいですね。 赤野 僕は、目の使い方もすごく大事かなと考えているんです。 藤田 はい、その通りです。目でも耳でも、普段の私たちは情報を取りに行こうとして感覚器官を過剰に緊張、収縮させています。瞑想のときは感覚器官を徹底的にくつろがせて、やってくる感覚をそのまま迎え入れる在り方を学んでいるんですよ。 赤野 迎え入れるモードに切り替えるんですね。 藤田 そうです。モードの切り替え。欲しいものしか見ていないから、窓を狭くした状態にしているんです。それを開放する。 赤野 たとえばパッティングでも、「入れよう」となると、取りにいく目になるんです。すると体も動きません。 藤田 人間は目から得る情報が80%と言われているくらい、目の情報に頼っている。目の緊張は全身の緊張につながる。目は脳の出店みたいなものなので影響が大きいんです。 赤野 迎え入れる、受け取る目になるための訓練はありますか? 藤田 いろいろありますよ。最初は物理的にマッサージでやさしくゆるめるということでもいいと思います。私はイメージを使って眼の緊張をゆるめるワークをよく行います。