禅を通してゴルフを考える。「平常心」は得ようとして得るものではない
目をゆるめるイメージトレーニング
まず仰向けになり、お椀のような形をした左右の眼窩(眼球が入っている空洞)に液体がたっぷり入っていて、丸く軽い眼球がそこに浮かんでいるところをイメージする。 液体の存在を感じながら、頭部をゆっくりと前後、左右、あるいは丸く動かして、眼窩の中の液体と目玉の動きを感じる。頭を元の位置に戻してから、今度は浮かんでいる眼球がゆっくり床に向かって沈んでいくところをイメージする。最初は左眼、次に右眼で試み、要領がつかめたら両方の眼球を同時に沈めていく。後頭部の底まで届いたらそこでしばらく眼球の存在を感じる。目を閉じたままゆっくり起き上がり、瞼をそっと開いて、眼の感じや世界の見え方に何か変化がないかを確認してみる。
“個人のため”ではなく、“大きくて永遠なるもののため”のほうが力が出る
赤野 私がアスリートを指導してきた経験からいうと、たとえば怒りがきた瞬間でも、手汗をかいていたり、お腹が張っていたり、複数のことが起きている。それを多く感じられているときほどそのアスリートは強いです。 藤田 思考や感情は私たちの存在の局面の1つにしかすぎません。それ以外のものにもきちんと注意を向けられるということは大事ですね。 赤野 思考と感情の声は大きいですから、これがすべてだと思うと、何とかコントロールしようとする。するとすごく無理が生まれ、緊張にもつながります。 藤田 小さい頃から、自分の思考と感情が自分だと思い込んでいるからね。特に現代人は、意識のなかに自閉している傾向が強い。 赤野 閉じ込められている。それにしても、禅の話って、普通にしていくと、おかしい人だと思われがちなんです(笑)。 藤田 瞑想状態は、病理的に人格乖離をしている状態とよく似ているという人もいるんですよ。 赤野 ある意味、ゾーンの状態とも近いんでしょうか。 藤田 そうかもしれないです。 赤野 トップアスリートは無意識でやっている人が多い。 藤田 無意識でできるのがすごいんです。自然に無理なくそこに入っていける。 赤野 大谷(翔平)さんもそうでしょうね。ただ危ないのは、無意識でやっているので、一度崩れたときに戻せない。 藤田 でも、一旦失って、苦労してもう一度取り戻したら、前よりレベルがあがりますよね。一流の逹人たちって、私たちとは全然違う身体感なのだと思います。そこまでどうやって行くかが伝わらないと次の世代に続かない。 赤野 ゴルフでは、とにかく目の前の結果を求めがちです。イップスなどになるのも、結果にこだわって、結果が怖くなるので体が動かなくなるんです。「振っているだけで楽しい」という子どものときに持っていたものを、大人になるにつれて失敗を怖がり結果を求めることでなくしていく。ゴルフで、いやスポーツや人生でもいいんですけど、どうしたら結果以外の楽しみに心を向けていけるんでしょうね。 藤田 ゴルフでは、クラブで球を打って穴に入れるわけでしょう。その動作には必ずそれなりの感覚がある。真空で行われているわけではなく、地面の上で、芝生の上で、木々の間で、という自然のなかで行われている。それ自体に楽しさはないのでしょうか。 赤野 なるほど。コースが美しいなどを感じることでもいいのかもしれません。 藤田 さっきはこんな傾斜でやったけど、今は平らなところで、というように毎回初めての条件下で打っていますよね。その1打1打に深さや面白さを感じたりはしないのですか? 赤野 ありますね。それが感じられている人ほど感性が高い。直感がさえているし、体も動く。スコアだけを考えずに動くことそのものの楽しさを感じていると思うんです。大谷さんなんかはまさにそうだと思います。振っていることの楽しさというようなものです。 藤田 もちろん、大谷さんも、ものすごいスピードの打球を打つために日々工夫していると思いますよ。でもそれは目標というより方向性。野球の奥深さみたいなものを本当に自分で知りたい、味わいたいんでしょうね。 赤野 どう探究していくかみたいなことも楽しいんでしょう。 藤田 そしてあれだけの収入につながったら、もっと楽しい(笑)。しかしやはり、自分個人のためというより、大きくて永遠なるもののためにやるほうが、力が出ると思うんです。人間はもともとそういう動物なんです。自分中心の小さな物語の中に閉じこもらないで、大きな物語のなかに自分の物語がちゃんと入っていると感じるのは、人間にとっていちばんのウェルビーイング。自分がいったい何のためにゴルフをしているのか、初心を忘れてしまうと燃え尽きる。初心を思い出し、そこにかえること。単に金や名誉、名声のためだけでは元気が出ない。それも含めたもっと大きなストーリーがあると力になります。 赤野 もう1つ。ゴルフでは数字に縛られることがよくあります。 藤田 坐禅の半眼を説明するときに、視線を45度落とすとか、1.5メートル先を見るとか、数字を出したら親切でいいと思っているけど、それは違うと思います。結果的にそうなるかもしれないけれど、そういう外的基準にあわせるというのは坐禅のやり方ではありません。そのときの身心の在り方との関係で視線が自然に落ち着くところを、感覚を手がかりにそのつど探すべきです。数字に頼るからどんどん感受性がなくなる。そして外の基準に合わせる、従順で奴隷的な主体性や自発性のない体になっていきます。数字は結果で、目指さないほうがいい。今やっていること自体を深めていくことに専心する。 赤野 今日は「平常心」のテーマから、多岐にわたるお話を聞くことができました。ゴルフだけでなく、人生を豊かにするためにも大切なことだと思います。 禅の言う「平常心」は、日常の文脈とは大きく違っていた。人生を豊かにするために、この「平常心」の意味をいま一度考えることは、全ゴルファーに必要な時間なのかもしれない。 PHOTO/Tadashi Anezaki
週刊ゴルフダイジェスト