江戸時代の高僧・雄誉の書刻んだ木版彫り念仏か 館山の旧家で伝承(千葉県)
館山市大網の大巌(だいがん)院を開いた江戸時代初期の浄土宗の高僧、雄誉霊巌(おうよれいがん=1554~1641=)の書と伝わる念仏を刻んだ「名号本尊」(みょうごうほんぞん)と呼ばれる木版彫りが、同市加賀名の平嶋家で代々伝承されていることが、同市のNPO法人安房文化遺産フォーラムの調査でわかった。平嶋家には、雄誉を幼少期から子ども期にかけて育てた、との言い伝えがあり、同NPOは、修行を経て僧となった雄誉が、育ててもらったお礼に念仏を書にしたため、平嶋家に贈った可能性があるとみている。(斎藤大宙) 同NPOの連絡を受けた市教育委員会の調査では、木版彫りは、長さ87・1センチ、幅18・5センチ。材質は不明だが、薄い木の板に掛け軸を模したとみられる長方形の枠があり、その中に「南無阿弥陀佛」の念仏6文字と、向かって左下に「雄誉」の署名、花押が彫られている。 板の表面は、黒くすすけたようになっている。薄く炭を塗ったか、線香か何かの煙に長年いぶされたためと考えられ、これが防虫や防湿の効果を果たし、保存状態は良好という。現在は、後年に作ったとみられる長さ91・5センチ、幅26センチ、厚さ7ミリの木製の外枠にはめられている。 同NPOと市教委によると、「名号本尊」は仏像に代わる本尊として仏壇に置かれた。平嶋家に伝わるものは、「南無阿弥陀佛」の「南」の字が丸みを帯びているなど、大巌院に残る「四面石塔」などの雄誉の字体とまったく同じだが、木版彫りの元となった文字が雄誉本人の直筆かはわからないという。館山市立博物館の図録によれば、当時は雄誉自身が信仰の対象となり、名号の需要が増えて木版刷りも大量に出回ったという。 現在の当主である平嶋芳枝さん(78)によると、平嶋家には、こんな言い伝えがある。 「名郷浦(なごうら、現在の同市波左間周辺)の海岸に流れ着いた木箱の中にきれいな着物を着せられた男の子がいて、平嶋家で引き取って育てた。この子は青年になると仏門を志して出ていき、後年、僧になって平嶋家に戻り、育ててもらったお礼にこの名号本尊を置いていった」――。 雄誉は、安房国主の里見氏の帰依を受けて大巌院を開いた。さらに、徳川幕府の帰依を受けて、後に江戸に霊巌寺を創建。京都・知恩院の32代住職も務めた。 現在の静岡県周辺を治めた今川家一族や、里見氏の出身という説など、さまざまな伝承がある。「四面石塔」は、雄誉が平和を願って1624年に建立したとされる。1969年に県の文化財に指定された。 芳枝さんには、小学生の頃、秋になるとこの名号本尊を大巌院に持っていき、家族と念仏を唱えた記憶がある。今は自宅の仏壇の中に立てかけ、毎朝念仏を唱えて表面を手でさすっているという。 この木版彫りについて、同NPO共同代表の愛沢伸雄さんは「雄誉は江戸湾を中心に漁民などからの信仰が厚かった。古い漁村に伝承が残り、ゆかりの品が見つかったのは重要だ」と話す。市教委の池田英真文化財係長も「雄誉の幼少期の伝承がある旧家に、ゆかりの品が伝わっているのは興味深い」と評価する。 芳枝さんは、今後もこの木版彫りを仏壇で大切に保管し、雄誉にまつわる言い伝えとともに伝承していくことにしている。