森友文書問題の根幹は何か…ズサンなデータ管理、情報肥大と日本の中枢劣化
肥大するデータ(情報)を検証できない科学研究の現場
長いあいだ、論文の指導と審査にたずさわってきたが、近年の若い人の研究の傾向として、膨大なデータとそのコンピューター処理とその結論が、研究者本人の中で、うまく筋立てられていないことが気になっていた。 そのデータがどういう条件で抽出されているのか、コンピューター処理のプロセスはどういう数学的アルゴリズムにのっているのか、その結果が示す傾向の学術的意味はどのようなものか、という理系の論文に求められる基本的な問いかけに答えられないのだ。 われわれが教えられてきた科学的再現性、推論の整合性、帰納と演繹といった基礎的条件が等閑視され、データから結論までがコンピューターというエスカレーターに乗ったように導かれている。そこには、一つ一つ考えながら階段を上るという手順が見えてこない。 理化学研究所のSTAP細胞問題、京大iPS細胞研究所のデータ捏造問題なども、研究を総括指導する者が、そのプロセスを確認できないことから起こったのだ。 もちろんこれは研究者の資質に大きな問題があるのだが、論文の数や引用数や受賞歴などによってのみ評価され、専門家もその研究の本当の質を評価することができない状況である。 情報社会といわれて久しい。厳密な理想条件を設定する自然科学の現場でさえ、急速に肥大する情報(データ)に、研究プロセスの確認検証が追いつかなくなっているのだ。
データ管理によって人間力が失われる「ものづくり」の現場
建築士が構造計算書を偽造した問題、杭打ち業者のデータ改ざん問題、自動車会社の燃費データ改ざん問題、無資格者検査問題、製鋼会社のデータ改ざん問題、新幹線の台車亀裂問題などは、日本が得意であったはずの、ものづくりの現場にさえ、基本となるデータと技術の関係を軽く扱う風潮が蔓延していることを感じさせる。明治以来、日本のものづくりを支えてきた東芝のような企業でさえ粉飾決算によってその企業存続が危うくなっている。 こういった問題の根底には、情報社会と管理社会の進行による中枢の管理者と現場の技術者の意識の乖離が横たわっている。「データ・情報・管理」による意思決定が、生身の人間の脳と眼と手の力を奪っているのだ。ものづくりの現場から人間力が消えていく。 しかしマスコミは、こうした問題が起きるたびに、管理の不十分と職務の怠慢を指摘するだけで、科学や技術の現場における本質的な問題を検証しようとしない。肥大する情報量を追いかけるだけで精一杯だ。 現在、AIやビッグデータなどは産業界でも注目されている。 筆者はこういった技術の可能性を高く評価している一人だが、それによって科学研究とその応用技術のプロセスがブラックボックス化することの危険性は無視できない。マスコミは、AIが人間の仕事を奪うことばかりを取り上げているが、AIの応用には、その分野ごとに膨大な研究開発を必要とするので、全体としての仕事量はむしろ増えるであろう。問題は、研究者や技術者が、肥大する情報(データ)の中で、知的主体性を失っていることなのだ。 人間の知の展開に「情報―知識―叡智」というプロセスを設定するなら、現代社会は「情報が肥大し、叡智が縮小する」社会ではないか。