森友文書問題の根幹は何か…ズサンなデータ管理、情報肥大と日本の中枢劣化
紙文書時代のツワモノは、電子データ時代のツワモノではない
厚労省とデータといえば、第一次安倍内閣のときの社会保険庁における「消えた年金記録」の問題が記憶に新しい。税金にしろ年金にしろ、国民から預かったお金の記録をなくすということは、日本行政史上最大級の汚点であり、与野党逆転の最大要因はこれではなかったか。 それまで、日本の官僚は優秀で、大臣がその省庁の仕事の詳細を知らなくても何とかなったのは、官僚の事務能力と資料の積み上げにより行政の連続性が維持されるから、とされてきた。それがこの事態である。今、日本の官僚機構に何が起きているのか。 かつて、官庁のオフィスを覗いてみると、机の上にはたくさんの書類がのり、机の脇にはたくさんの書類袋が入ったダンボール箱が積み上げられていた。大量の文書を処理する能力に長けた日本の官僚たちは、その書類の山の中を生き生きと歩きまわっていたものだ。 現在、官庁のオフィスの机の上には大きなデスクトップ・パソコンがのり、官僚たちは必死の形相でモニターとにらめっこして、マウスを動かしキーボードをたたいている。彼らはそのデスクトップに使われ、奉仕させられているようにさえ見える。モニターの向こう側には、公僕としての彼らの主人である「公権力」が連なっているからだ。 一方、このサイトを運営する会社など、ネット系企業の社員は、平均的に年齢が若く、ラフな私服で、生き生きとノートパソコンを持ち歩いて仕事しているように見える。 紙文書時代のツワモノは、電子データ時代のツワモノではないようだ。 かつてコンピューターがメインフレームからパーソナルへとシフトしたとき、IBMの社員と、マイクロソフトやアップルの社員たちは「背広とジーンズ」に例えられた。日本の官僚たちは、紙文書が電子データへと転換しても、背広をジーンズに着替えるわけにはいかない。つまり時代に合わせた文化転換ができず、古い文化と新しい文化の相克に苦しんでいる。紙文書から電子データへの転換は、大宝律令以来の、日本の官僚文化そのものの大転換なのだ。そこに現政権からの圧力がかかる。その力に乗る者と抵抗する者とのあいだに強い軋轢が生じる。