三浦雄一郎さんが報告会 南米最高峰登頂を断念(全文1)無事、帰ってまいりました
三浦豪太さんの報告
三浦豪太:スライドはいいのかな。 男性:あとで。 司会:スライド、あとで。 三浦豪太:あとで。はい。 三浦雄一郎:座ったほうが。 三浦豪太:そうだね。 三浦雄一郎:マイクが入っとるから。 三浦豪太:こんにちは皆さん。三浦雄一郎が1月の20日の時点、21か、あ、20日の時点でドクターストップとなりまして、一番どうしようかなと考えたのは、そのドクターストップそのものよりも、ドクターストップを受けたことで三浦雄一郎の気持ちを下に向けさすという、このことが、今回、もしかしたら遠征の中で一番ドラマチックなところだったんじゃないかなと思います。 その次の日に、僕も僕自身も、うちの父親が登らない、登らせないようにということで、下山することを覚悟していたというよりも、僕のほうが率先して、じゃあ山から下りようと言い始めた分、アコンカグアにはまた父親が登ってこいと言われるとは思ってもいなかったので、僕自身ちょっと驚いていまして、翌日、ニド・デ・コンドレスという下の、コレラの下のキャンプですね、約500メートルほど下のところにキャンプがあるんですけれども、そこから夜中の1時半に出発して、登攀リーダーの倉岡、そしてカメラの平出、そしてもう1人のカメラ、中島健郎くんと山頂を目指しました。 最初はかなりのペースで登っておりまして、僕としては6000メートルにいたと。で、三浦雄一郎を5500メートルの地点に下ろしてから、またそのままの折り返しの山頂アタックだったんですけれども、後半かなりきつくなり、6961メートルの山頂なんですけれども、おそらく6800メートルのところ辺りですね、あと残るところ100メートル弱のところで酸欠になりまして、そこから倉岡さんから酸素を受け取って山頂に至ったという感じですね。 残念ながら、今回、うちの父親と山頂には立てなかったんですけども、うちの父親とうちの兄がベースから2日間で登ったと。ということは、たぶんニド・デ・コンドレスから登ったのとほぼ同じような行程で登ったと思うんですけれども、よくぞ、その当時にそんなペースで登ったなと、驚くほどのそこのアコンカグアの山の奥深さだと思いました。 山頂からの景色をほとんど酸欠で楽しめる間もなく、ともかく山頂にいたことを報告、そして写真、そしてそのまま慌ただしく下りてくるという、わずか1日の行程でニド・デ・コンドレスから登ってきて、なんとなく、そうですね、うちの父親と立ちたかったというより、その当時の50歳、53歳のときの三浦雄一郎のその姿と、それを追い掛けていたような、そんなような山頂の立ち方でした。 そのあとに、やはり今回、スキー遠征だったので、スキーをしようと思って5500メートルのところから、約標高差500メートルほどスキーをしてきたんですけれども、これもカントリースキーの良さという、パウダーとかそんなこととはまったく無縁で、がたがたの小さなペニテンテスを踏みつぶすような、踏みつぶせもしないんですよね、固くて。ともかく、なかなかシビアなスキーではありましたが、それでもやっぱりスキーができて良かったなと思います。 今回に至っては、本当に三浦雄一郎の体の中を最もよく知っている、そしてその病状をよく知っている大城先生には助けられた形、あるいは非常に厳しい決断を本当に大城先生が下してくれた形で、本当に感謝しております。本当に山の中での突然死というこの不可解な出来事というのは、医学の中でも非常に難しい部分ではあるんですけれども、そこの線をきちっと引けるというのが、今回の遠征の1つのポイントだったんじゃないかなと思います。 今後とも、高齢者登山の中で、ともかく山を楽しんでほしい、でも、そこでは死んではいけないなと、そういう思いで今回の遠征をそもそもつくったつもりでいます。そんな意味では、全員が健康的にアコンカグアから下りてこられたっていうのは、1つの成果ではないかなと思います。以上です。はい。 司会:はい。続きまして、今回、三浦の、ずっと医学的面からサポートをしてくださいまして、遠征の一番、要となるディシジョンをしていただいた大城先生のほうからお話をお願いいたします。