だからSMAPは国民的アイドルになった…冠番組「スマスマ」とそれまでのバラエティ番組との決定的な違い
■ドキュメンタリー化のきっかけ 「スマスマ」初回、中森明菜が歌ったSMAPの「がんばりましょう」(1994年発売)は、ある時点から特別な意味合いを持つ楽曲になった。 1995年、阪神・淡路大震災発生直後の『ミュージックステーション』生放送。出演したSMAPは、木村拓哉と中居正広が被災者に向けてメッセージを送った後、予定の曲目を変更して「がんばりましょう」を歌った。 SMAPのアイドルとしての新しさは、こうした社会貢献への意思、社会的メッセージの発信を積極的に打ち出したところにもあった。 「スマスマ」も同様だった。2011年に東日本大震災が発生した際、通常回を取りやめて緊急生放送をおこなったSMAPは、視聴者から寄せられたメッセージに囲まれながらそれぞれの思いを吐露し、ここでも「がんばりましょう」を披露した。 こうして「スマスマ」は、単なるバラエティの枠を超えたある種のドキュメンタリーとなった。通常回でも東日本大震災発生以降、毎回番組の最後に義援金への呼びかけがあったことを覚えているひとは多いだろう。そこが、単なる王道バラエティの継承にとどまらない「スマスマ」の新しさでもあった。 ただ、この「スマスマ」のドキュメンタリー性は、SMAPというグループの歴史そのものをある種リアリティショー化することにもつながった。 ■「あの日に、僕は放送作家として、終わった」 「スマスマ」の最高視聴率は、2002年1月14日放送回の34.2%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)。これは、稲垣吾郎が不祥事による活動謹慎から約7カ月ぶりに復帰した回で、生放送だった。後には草彅剛についても同様のことがあった。 そして2016年1月18日。いまもまだ記憶に新しい、グループ解散報道を受けての緊急生放送があった。 本来なら、バラエティである限り、番組内でそのことについてわざわざ言及する必要はないという考えかたもあるだろう。しかし、「スマスマ」は自らドキュメンタリー的要素を取り込み、稲垣や草彅の復帰放送という前例もすでにつくってしまっていた。 その日の緊急生放送では、「一部内容を変更します」としたうえで、5人がスーツ姿で謝罪の言葉を述べる場面が放送された。結局、解散発表などはなく、ひとまず「スマスマ」の放送も続いた。 だがそれは、ファンや視聴者を安心させるというよりは、逆に不安にさせる結果にもなった。 SMAPという国民的アイドルグループの存続そのものにかかわるものだけあって、世間の強い関心を集めたこの回の視聴率も31.2%と非常に高かった。そして放送後は、横一列に並んだ5人の立ち位置、服装、謝罪の内容などについてさまざまな解釈が飛び交った。むろん5人の表情も硬く、雰囲気も沈んだもので、決して希望を見いだせるものではなかった。 当日の放送にもスタッフとしてかかわった鈴木おさむは、「あの日に、僕は放送作家として、終わった」(『もう明日が待っている』より)と述懐する。