あやまん監督「全盛期は泣いてばかりいた」大人の事情で10kg減…それでも“燃え尽き”から復活できたワケ
アラサー、アラフォー世代にとっては平成の遺産と言っても過言ではない“あやまんJAPAN”。「ぽいぽいぽぴー」というフレーズで一世を風靡した下ネタ宴会芸の女性チームという認識の方も多いかもしれませんが、2014年に「あやまんJAPAN株式会社」として法人化し、今年で10周年を迎えていたようです。 【画像】あやまん監督(全6枚・写真提供:あやまん監督) 会社の代表でチームの監督であるあやまん監督に、全盛期の心境や現在に至るまでの転機、「コンプラ」への意識などを伺いました。
初のテレビ出演は不満だらけだった
――10周年おめでとうございます! いま改めて、あやまんJAPANの成り立ちから教えてください。 あやまん監督(以下、監督):幼い頃から人前に出ることへの憧れはあって、そんな中で見つけた仕事がイベントコンパニオン(以下、イベコン)でした。イベコン時代の先輩に誘われた飲み会にいたのが、Jリーグ選手でした。その後、いろんなチームと飲み会をするうちに人脈も広がり、やがて女性メンバーが固まっていき、私主導で飲み会を繰り広げるようになりました。 ――その後、テレビに出るようになったきっかけは? 監督:当時、氣志團の綾小路翔さんが経営してた六本木のバーに入り浸っていたところ、「君ら、面白いね」と気に入ってもらえて。その後、同じタイミングで木梨憲武さんや小木矢作の矢作さんとも繋がって飲むようになり、矢作さんとはもう何度も試合をさせていただいて…だんだんテレビ業界に近づいていきました。 ――初めて出た番組が『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の“安すぎて伝わらない素人芸選手権”でしたよね。初のテレビ出演は嬉しかったですか。 監督:それが「やったー出られる!」などの喜びは1mmもなくて。お誘いを受けたものの「ぽいぽい」の歌詞が大人の事情で放送できない文言が多く、放送作家さんから「こんな歌詞でどう?」って変えられたり削られたりで納得できず。「こんなの私達の面白みが削がれちゃうじゃん!」って不満に思うことだらけで、収録が終わってからも不満が残りました。 ――瞬く間に大人気となりましたね。 監督:そうですね。当時やってたアメブロは一晩でアクセス数が爆発的に増え、当時住んでいた方南町の4畳半のアパートで「とんでもないことになった!」と感じました。その後は業界の大人達から「事務所に入れ」「CDを出せ」と詰められ、まるで大きな渦に飲み込まれるようで…。毎日、何かしら決断を迫られる日々でした。