「帰ってくるな」1970年代に単身渡米しキャリアを築いた京子スペクター 背中をおした父の「ひと言」
TV番組プロデューサーやコメンテーターなど、マルチに活躍するデーブ・スペクターさんを、妻として、事務所社長として支える京子スペクターさん。1970年代、まだ海外で働く日本人女性が少なかった時代にどのようにキャリアを積んでいったのでしょう。(全4回中の1回) 【画像】「まるでモデル!」アメリカのホテル勤めをしていた当時の京子スペクターさん「足が長くて美しい佇まい」(全17枚)
■日本と海外を行き来する父の姿に憧れて ── 幼い頃から海外への憧れを抱いていたそうですね。何がきっかけだったのでしょうか。 京子さん:私の父は商社に勤めており、中国や東南アジアへのたびたび出張していました。英語を使って海外で活躍する父の姿を見て育った私は、幼い頃から海外への憧れを強く持っていました。
小学校高学年くらいになると、「フライトアテンダントになるかホテルで働きたい」と考えるように。語学への興味もあり、中学生の頃にはペンパル(文通友達)を作り、定期的に英語で手紙をやりとりするようになりました。とはいえ、当時はまだ英語がほとんどわからず、本や辞書で「いい天気ですね」などのフレーズを調べ、一生懸命書いていたことを記憶しています。 高校生になると、近所で無料の英会話教室が開催されることを知り、週1で参加するようになりました。その教室は、あるキリスト教の宣教師の方が主宰していたのですが、当時、リアルな英語を聞ける機会がほとんどなかったため、新鮮な気持ちで通っていました。
── 子どもの頃から、英語への学習意欲を高く持っていたのですね。 京子さん:そうですね。高校卒業後も「語学を身につけたい」という思いで「留学したい」と親に相談しました。しかし、母親からは反対されてしまって…。3人きょうだいのひとり娘ということもあり、心配だったのだと思います。 父が応援してくれたおかげで、ハワイのブリガム・ヤング大学に通えることになりましたが、しばらく経つと、「ここではネイティブな発音が学べないかもしれない」と感じるように。ハワイは、さまざまな国から移住してきた人が多いため、ネイティブとは異なる発音やイントネーションで話す人が多かったのです。
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