老中・堀田正睦の上京、2回も勅許拒否した孝明天皇の真意と、堀田が想像できなかった「将軍継嗣問題」の行方
■ 将軍継嗣の条件とその行方 安政5年3月18日、越前藩士で松平春嶽の股肱の臣である橋本左内は、主君を説得し、春嶽から書を鷹司政通の家臣である三国大学に送って、慶喜擁立の斡旋を依頼した。その骨子は、「英傑・人望・年長」という3要件を将軍継嗣の条件として、幕府に内諭することであったのだ。 これに対し、三国からそのことを聞き及んだ鷹司政通・輔煕父子司父子は、慶喜擁立を快諾した。なお、この頃には、慶喜擁立をめぐって、橋本左内の活躍もあって、近衛忠煕・三条実万・青蓮院宮(中川宮)・鷹司父子との連携が確立していた。 三国から左内宛書簡(3月22日付)によると、「英傑・人望・年長」という3要件によって、将軍継嗣の決定を幕府に沙汰することが決定したことを告げている。実際に、21日にはその旨、堀田に内意が伝達されていたのだ。一橋派が、俄然優位となる情勢となった。堀田は、この段階では一橋派に傾斜しており、そことの連携によって、条約勅許を獲得しようとする思惑が透けて見える。 しかし、堀田が想像もできない事態が勃発した。3月24日、九条関白の専断で3要件が削除されてしまったのだ。なお、「年長」については、口頭で堀田に伝達されたが、それだけでは、堀田は不安であった。そこで堀田の要求から、貼紙で「年長」という文言が付加されたが、焼け石に水の感はぬぐえない。
■ 孝明天皇の真意はどこにあったのか? ところで、九条関白の独断専行によって、事実上、3要件は葬り去られ、俄然、南紀派が優位となったが、孝明天皇は本件をどのように捉えていたのだろうか。彦根藩家老岡本半助上申書(3月28日)によると、「西丸(将軍継嗣)様も一橋様と御内定ニ相成候趣、是も天朝より御内々被出御座候由」と、朝廷・孝明天皇の意向から慶喜が継嗣と内定し、内々に幕府に沙汰があるとしている。 また、時期は若干下るものの、九条関白宛勅書(安政6年(1859)10月16日)の中で、孝明天皇は往時を振り返って、「前大樹病身之所、外夷混雑不容易之苦心ヨリ、此度養君ニハ年長英明之人ニ無之テハ難治ト存、其通申出候事ニテ」と述べている。これによると、家定が病身であり、通商条約の問題が輻輳して容易ならざる苦心から、継嗣には年長で英明の人でなければ治まらないと思い、その通りに沙汰したと述べている。これらからして、孝明天皇の叡慮は慶喜継嗣で疑いなしと判断できるのではなかろうか。 次回は、本シリーズの最終回として、堀田帰府後の幕政の激変、具体的には井伊直弼の大老就任と安政の大獄の萌芽、通商条約の違勅調印、堀田の罷免と一橋派の敗北、堀田の最期について詳解し、堀田外交の総括をして締めくくりたい。
町田 明広