老中・堀田正睦の上京、2回も勅許拒否した孝明天皇の真意と、堀田が想像できなかった「将軍継嗣問題」の行方
(町田 明広:歴史学者) ■ 堀田の上京と1回目の勅許拒否 安政5年(1858)1月17日、孝明天皇は宸翰を関白九条尚忠に下賜し、老中堀田正睦の上京時、賄賂のために判断を誤らないように諭旨した。さらに26日、孝明天皇は重ねて宸翰を九条に下賜し、通商条約勅許の奏請を斥け、衆議を尽して人心を帰服する旨の勅答を堀田に示すことを指示した。孝明天皇の勅許拒否に向けた、すさまじいばかりの意気込みを感じ取れよう。 【写真】主君である松平春嶽を説得し、春嶽から書を鷹司政通の家臣である三国大学に送って、慶喜擁立の斡旋を依頼した橋本佐内 2月5日、堀田は勅許獲得、外交権の幕府への委任確認のため入京した。11日、堀田は武家伝奏広橋光成・東坊城聡長、議奏久我建通・万里小路正房・徳大寺公純と旅館の本能寺で会談した。その時、本多忠民(所司代)・川路聖謨(勘定奉行)・岩瀬忠震らと世界の形勢を詳しく説明し、条約草案を示して勅許を要請したのだ。13日、広橋・東坊城・万里小路は堀田と外交事情について、再び質疑応答をしており、17日には、通商条約案および堀田らの陳情書を廷臣に回覧した。 2月16日、孝明天皇は宸翰を左大臣近衛忠煕に、20日に九条関白に下し、前関白鷹司政通・輔煕父子の勅許容認の意見を警戒し、叡旨を翼賛(力添えをして天皇を助けること)すべきと諭旨した。21日、朝議において、鷹司の調印勅許の意見を押さえ、勅許拒否と決定した。 2月23日、武家伝奏・議奏(11日と同一人物)は堀田に対し、条約調印は国家の安危・人心の帰趨に関するため、さらに徳川三家以下諸侯の議に諮ることを命じた。一方で、その後に勅裁(天皇が判断すること)することを伝達した。つまり、条約調印の奏請に対する勅許拒否である。
■ 朝幕間の駆け引きと2回目の勅許拒否 安政5年2月26日、井伊直弼は家士長野主膳(義言)を上京させ、堀田上京中の形勢を偵察させ、条約勅許の周旋および一橋派工作の妨害を命令した。政治活動に秀でた長野は、九条家青侍・島田左近を通じて関白九条尚忠を籠絡し、勅許賛成に転向させ、南紀派を支持する確答を得た。 一方で、朝廷内の実力者である鷹司政通は、それまで勅許賛成派であったが、3月中頃に家臣三国大学・小林良典の入説で勅許拒否に転向し、さらに、3月12日には88人(廷臣八十八卿列参事件、岩倉具視が主導)、13日36人、14日19人の下級公卿が列参し、勅許反対の示威行動を行った。 ところで、3月5日、堀田は議奏久我、武家伝奏広橋・東坊城に対し、通商条約の勅許を再度要請していた。これに対し、9日の朝議では、幕府側に寝返った九条関白が外交措置を幕府に委任する旨(条約勅許)の勅裁案を提示していたのだ。しかし、廷臣八十八卿列参事件等で九条案は事実上の撤回を余儀なくされた。 3月20日、堀田は小御所に召され、これ以降も三家以下諸侯の意見を奏して、再び勅裁を仰ぐことを沙汰された。つまり、再度勅許は拒否されたのだ。22日、堀田は武家伝奏広橋、議奏万里小路・裏松恭光らに通商条約に関して、アメリカとの談判の変更は難しい実状を、理由や事情を述べて申し開きし、もしも不測の事態が発生した場合、その対処方法はどうすべきかを逆に詰問した。また、岩瀬・川路は廷臣からの質問に対し、腐ることなく詳細に回答しているが、堀田に挽回のチャンスは訪れなかった。