関学大アメフット部“名物監督”鳥内氏がジョークと毒舌の異例退任会見「口だけの男にはなんなよ」
卒業後、米国の南オレゴン大、UCLAへ4年間のコーチ留学。1986年から関学大のコーチを経て92年に監督に就任した。以来、通算成績は197勝38敗3分け。学生日本一を決める甲子園ボウルで12回の優勝を誇り、2002年のライスボウルでは社会人王者のアサヒ飲料を下し、初の日本一にも輝くなど、青の常勝軍団を築き上げた。 「帰国してすぐのときは自分で考える選手が少なくワンプレー、ワンプレーで声を掛け、上から目線だったが、監督になってからは方針を変えた。自分で考える力は教育においては一番大事なことだから」 もちろん、選手とともに1勝を喜び、1敗を悔やんだ。2002年から2005年にかけては甲子園ボウルに出場できない低迷期も味わった。 「負けた年は全部悔いが残る。特に甲子園ボウルに出られなかった4年間は悔しかった。うれしかったんはライスボウル。なかなか勝たれへんかったから。しかし、いま思うと勝つチャンスがあるのに勝たれへんかった試合もあった。いまの自分ならもう少しやれたかな、というのもある」 28年間の監督人生。その中には、ひとつの敗戦など比べようもないほどつらくて、やるせないこともあった。2003年8月、夏合宿の最中に当時、4年生で中心選手だった平郡雷太さんが急性心不全で亡くなった。しばらく喪に服し、その後の指導方針にも大きな影響を与えた。いまでも墓参りは欠かさない。 「大事な子どもを預かっているのに、守ってあげられなかった。あれから安全第一に、指導もガラガラッと変えた。選手によって個人差があるが、夏の暑いときに、命を守るために練習をやらんようにした」 「世界一安全なチームを作る」と誓い、「コーチングの基本指針」を作成して徹底した。 選手と対話し、選手の自主性を引き出しながらチームを作り上げていく。その”鳥内流”の指導方針は、2018年春の日大との定期戦で起こり、社会問題にもなった日大の悪質タックル問題でも大きくクローズアップされた。 「大学スポーツは選手が自分で考えてやるものでしょ。学生がやりたいことをサポートするのが指導者の役割」と選手本位の姿勢は旧態依然とした日大とはあまりにも対照的だった。 なぜ、そこまで自主性を重んじるのか。改めて問われると、こう答えた。 「逆に考えてみてください。選手が意見を持っているのに聞いてくれない、シャットアウトされるとおもろないでしょ。納得させるのは必要。自主性に任せんのはある意味、まあ、僕がさぼってるだけ。”お前ら勝手にやってくれ作戦”ですわ」 監督退任のタイミングについては、「4年をひとつのスパンと考えてきたが、ここまで長くやるとは思ってなかった。ファイターズもこれからの5年、10年、20年を考え、若い人に引き継いでいかないといけない。そろそろ、ええんちゃうかな、と」と話した。