“最後の銀幕スター”小林旭が語る、石原裕次郎と過ごした“忘れられない一夜”「もう時効だから言ってしまうけど…」
「夜は記者連中と芸者遊びをして…」小林旭が語った“古き良き時代”
いまなら通行人がこぞってスマホのカメラを向けそうな場面だが、当時は騒ぎになることもなかった。 「人が集まっても黙って見てるだけ。京都という土地柄もあるし、当時の市民感覚では芸能界は別世界だという意識もあったと思うよ。 何しろ、あの頃はマスコミだって一緒になって遊んでたからね。夜は記者連中と芸者遊びをして、あくる日に朝粥を食べながら報告会をやったこともある。新聞や雑誌ごとにそれぞれ当番記者がいて、背広のポケットに手を突っ込めば記事にはしないという合図だ。こっちは書いていいけど、こっちの話はゴミ箱行き。そんな秘密のやりとりがあった。いまでは考えられないかもしれないが、古き良き時代だったとしか言いようがないよ」
「あの時は揉めに揉めたね」52歳の若さで裕次郎が亡くなったときの状況
裕次郎が肝細胞癌で亡くなったのは1987年7月。52歳の若さだった。 「倒れたと聞いて病院に行った時は、石原プロの連中がガードして会わせてくれなかったんだ。自宅でひっくり返った時も俺と長門、錠さんと二谷で駆けつけたけど、なぜか二谷しか入れてもらえなかった。あの時は長門が怒って、揉めに揉めたね。亡くなった時も同じ。病院の待合室でじっと座っていると慎太郎さんが来て、俺を見ながら『ああ……』と言って病室に入って行った。 あの頃、活躍した人たちはほとんどいなくなってしまった。昭和は慎太郎さんが『太陽の季節』や『狂った果実』を書き、三島由紀夫も負けずに書いた。小学校しか出ていない田中角栄が国民のために政治をし、誰もが生き生きとして何事にも一生懸命だった時代だ。 芸能界にしても、俳優やスタッフが仕事に闘志を燃やしていた。特に看板スターと呼ばれるような人たちには所帯を背負っているという使命感があった。いまでは作る側にそんな情熱はないよね。フィルムの向こう側の世界にロマンを感じることも無くなってしまった」
小林 旭/ノンフィクション出版