ドイツに尽くしたユダヤ人、フリッツ・ハーバー...成功の裏にある「父に見捨てられた」過去
父親に見捨てられる
――何が、ハーバーをそこまで駆り立てたのでしょう。 【高橋】その要因の一つは、彼と父親との関係にあるのではないかと私は考えています。ハーバーの父親ジークフリートは、裕福なユダヤ織物業者の出身でした。彼は、幼馴染のパウラと熱烈な恋愛関係になり、周囲の反対を押し切って「いとこ結婚」をします。そこで生まれたのがハーバーでした。 ところが、パウラは産後不良で3週間後に亡くなってしまう。最愛の妻を亡くしたジークフリートは、忘れ形見のハーバーを可愛がるどころか、忌み嫌うように避けて妹夫妻に預けたまま放置したのです。 ――ハーバーは、父親に見捨てられてしまった......。 【高橋】ジークフリートは、よほどパウラを愛していたのでしょう。だから、彼女を思い出させる息子ハーバーを見たくなかったのかもしれない。ジークフリートは再婚するまでの6年間、文字通りハーバーを見捨てて、異常なほど仕事に没頭します。 一方、ほとんど親戚たちのユダヤ共同体で育てられたハーバーは成績優秀で、通常よりも1年早く17歳で「大学入学資格」を得ます。 ところが、家業を息子に継がせたいジークフリートは、息子の大学進学に反対し、無理やり染物商会に弟子入りさせる。勉強好きのハーバーにとって、商人に雑用を言いつけられる日々は耐え難い苦痛でした。彼は2カ月後、勝手に商会を辞職して家に戻ってきてしまう。激怒した父親を親戚たちが懸命にとりなし、ようやくハーバーはベルリン大学に進学できました。 しかし、考えてみると、後にハーバーも妻クララをないがしろにして毒ガス開発に没頭するようになる。この父子の徹底した自己本位の集中力と固執性は共通しているわけです。 ――ハーバーの化学者としての成功への執着の根底には、「父に認められたい」という感情があった。
ドイツ人になろうとしたユダヤ人
【高橋】もう一つは、彼がユダヤ人であることが挙げられます。ただし彼は、クララと結婚する前にキリスト教に改宗してユダヤ共同体と決別するんです。 その後のハーバーは「ドイツ人以上にドイツ人になろうとしている」と陰口を叩かれるほど、ドイツに尽くしました。彼が、イーペルで使われた塩素ガスを強化した「イペリット・ガス」、さらに毒性の強い「ツィクロン・ガス」を開発し続けたのも、当時のドイツの学界や軍部から認められるためでした。 ベルリン大学の同僚でハーバーの親友だったアインシュタインは、ハーバーのことを「天才」と認めながら、「君は、科学的才能を大量殺戮兵器のために浪費している」と批判しました。これに対してハーバーは、「毒ガスで戦争を早く終わらせることができれば、結果的に、より多くの無数の人命を救うことができる」と反論しています。 しかし、実際には皮肉なことに、彼の開発した毒ガスは、ナチス・ドイツが効率的にユダヤ人を抹殺するために強制収容所で使用されました。しかも、これほどドイツに尽くしたハーバーに対して、ヒトラーはユダヤの出自によって迫害し、彼はベルリン大学を辞職せざるを得なくなります。 行先のないハーバーを最後に受け入れてくれたのは、イスラエルのユダヤ人研究所でした。ハーバーは異常なほど努力し、父親から嫌われても妻が自殺しても完璧な「ドイツ人」になろうとした。にもかかわらず、ドイツそのものから見捨てられてしまった。結局彼は、ユダヤと父の血を引く自らの運命から逃れられなかったのです。
高橋昌一郎(國學院大學教授)