大相撲の千秋楽、なぜ自衛隊音楽隊が『君が代』を演奏するの? 知られざる本邦オーケストラ誕生史
幸田露伴の誇り高き妹たちの姉の方、幸田延は小学校(東京女子師範学校附属小学校)時代にルーサー・ホワイティング・メーソンに見出され、音楽取調掛→東京音楽学校と音楽エリート教育を受けた人物である。 1889年(明治22年)には「第一回文部省音楽留学生」に選ばれ、ボストンのニューイングランド音楽院を経てウィーン音楽院に留学。ピアノ、ヴァイオリン、和声、作曲とオールラウンドに学んだスーパーウーマンである。 伊沢は東京音楽学校を軌道に乗せて成長させただけではなく、たとえば浜松から山葉寅楠(1851年、和歌山生まれ)が試作のオルガンを携えてやってくれば相談に乗り、東京音楽学校の外国人教師に紹介してアドヴァイスをもらえるように計らい、名古屋から鈴木政吉(1859年、名古屋生まれ)が試作のヴァイオリンを携えてやってきたら相談に乗り、東京音楽学校の外国人教師に紹介してアドヴァイスをもらえるように計らった。 そして、山葉にも鈴木にもしかるべき人物(たとえば共益商社の白井練一社長など)と顔をつなぎ、山葉は日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)、鈴木は鈴木バイオリン製造(スズキ・メソードは息子・鈴木鎮一が創設)といったコングロマリットへと発展していくのだ。 そんな伊沢のおかげで、幸田延は、25歳で上野公園内に奏楽堂を含む新校舎も建てられた東京音楽学校の教授として迎えられた。 そこにはルドルフ・ディットリヒに師事してヴァイオリンの腕をめきめきあげていた幸田幸や、のちに作曲家になる瀧廉太郎がいた。 在籍していたアウグスト・ユンケル(1868年、ドイツ生まれ)は、同じ外国人教師──たとえば、チェロ奏者のハインリヒ・ヴェルクマイスター(1883年、ドイツ生まれ)やピアニストのラファエル・フォン・ケーベル(1848年、ロシア生まれ)──や幸田シスターズの姿を見かけると自分が受け持つレッスンそっちのけで、彼らと室内楽を楽しんだ。 ユンケルは室内楽では飽き足らず、少しずつ演奏者を集めてフル・オーケストラ(東京音楽学校管弦楽団)を組織した。そして、シューベルト《交響曲第7番「未完成」》やケルビーニ《レクイエム》やブラームスの《ドイツ・レクイエム》といった曲を演奏した。 ただ、東京音楽学校にはピアノ、ヴァイオリン、声楽の生徒はいたが管楽器奏者は不足していた。そこでユンケル先生は強引な手に出た。 「カンタータ《海道東征》で知られる作曲家の信時潔(のぶとききよし)の音楽学校在学中の思い出によると、たいていの生徒は『ユンケル先生につかまって何か管弦楽の楽器をやらされた』。ことに管弦楽奏者は当時少なかったので、トランペットやらオーボエやらを勉強させられた。 ユンケルは厳しく、ちょっと音程を間違えると、『You alone(君だけで!)』と1人ずつ何度でもやり直させ、大声で怒鳴ることもしばしばだったという」(東京藝術大学HP~東京音楽学校1912年「わが国オーケストラの父、ユンケル」) 幸田延がウィーンから帰国した際の「帰朝記念演奏会」のプログラムにヒントがある。 幸田延は、ハイドン《弦楽四重奏曲》(曲名不詳)ではファースト・ヴァイオリンを弾き、シューベルト《死と乙女》とブラームス《五月の夜》というリート2曲を歌った。メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》の第1楽章も演奏したが、これはピアノ伴奏での演奏だった。クラリネット奏者の吉本光蔵(1863年、東京生まれ)をゲスト奏者として招いてのモーツァルト《クラリネット五重奏曲》の第2楽章は、延がピアノ伴奏を担当した。 ゲスト奏者? そう、吉本光蔵は東京音楽学校の関係者ではなかった。海軍軍楽隊でフランツ・エッケルト(1852年、ドイツ生まれ)に師事した優秀な軍楽隊員であり、当時の日本ではクラリネットの若きエースだったのだ。 ちなみに、フランツ・エッケルトはドイツ海軍の軍楽隊でオーボエを吹いていた。日本の軍楽隊の教師として来日し、音楽取調掛でも教えていたこともある。『君が代』の編曲(吹奏楽)をしたり、韓国の国歌を作曲したりもした。 そうなのだ。音楽学校でオーケストラが立ち上がるより早く、まったく別の組織でアンサンブルが形を作っていた。軍楽隊である。 きっかけは、1863年(文久3年)の薩英戦争である。 横浜の生麦事件(大名行列の際、イギリス人4人が行列をよけなかったとして3人を切り捨てた事件)の犯人を処刑し、賠償金2万5000ポンド(幕府には10万ポンド)の賠償金を要求したイギリスに対し、薩摩藩はこれを拒否。頭にきたイギリスは7隻の艦隊を率いて鹿児島湾に現れたのだ。 結局、薩摩藩は幕府から借り入れて賠償金を払ったが、その骨のある戦いぶりと講和交渉の際の薩摩藩の態度にイギリスは感心。薩摩藩もイギリスを通じて西洋文明の素晴らしさと軍事力に驚き、お互いを認め合った。 これ以降、薩摩藩とイギリスは友好関係を結び、1866年(慶応2年)には薩摩藩はパークス駐日英国公使夫妻と英国陸海軍300人を招聘して相互の軍事訓練を披露した。 この時、イギリス軍が戦死者を水葬する際に吹奏楽による葬送曲を演奏したのがきっかけで、日本人は吹奏楽を知ってしまった。 1869年(明治2年)、陸軍大臣・大山巌(1842年、鹿児島生まれ)が上京した際に、イギリス領事館に吹奏楽の指導を依頼し、30人ほどの薩摩藩士の若者(鼓笛隊出身者が中心)を「軍楽伝習生」として横浜に呼び寄せた。 彼らは横浜市内の妙香寺で、イギリス陸軍第十連隊第一隊長のジョン・ウィリアム・フェントン(1831年、アイルランド生まれ)の指導を受けた。 彼らを薩摩隊(サツマ・バンド)という。薩摩藩主・島津忠義に買い与えられた新品の楽器で演奏スキルもめきめき上達。公務で式典等の演奏を担当した。 この薩摩藩軍楽伝習生(サツマ・バンド)を母体として日本の陸海軍の軍楽隊が発足した(兵部省軍楽隊から分離)。1871年(明治4年)のことである。 幸田延の帰朝記念演奏会に招かれクラリネットを演奏した吉本光蔵は、海軍の第1回軍楽公募生。第2回軍楽公募生に応募して採用(1882年)され、フランツ・エッケルトや吉本光蔵に師事した瀬戸口藤吉(1868年、鹿児島生まれ)は、『軍艦行進曲』や『愛国行進曲』を作曲した。 こうして、明治以降、洋式兵法導入により軍隊行進の伴奏や催事における演奏など、軍楽隊のニーズは日に日に高まっていた。この伝統が自衛隊音楽隊へと受け継がれていて、大相撲の千秋楽で演奏される『君が代』を自衛隊音楽隊が担当するのも、この流れなのだ――。 ※ 以上、本間ひろむ氏の新刊『日本の指揮者とオーケストラ 小澤征爾とクラシック音楽地図』(光文社新書)をもとに再構成しました。個性が炸裂する指揮者とオーケストラの魅力に迫ります。