歴史的なJ第1号の裏で受けた「無視」 元V川崎マイヤーが蘭放送局で赤裸々告白「私たちはチームじゃなかった」
日本サッカー史に刻まれた“名ゴール”を決めた往年の名手が、当時の心境を赤裸々に告白した。現地時間1月6日にオランダの公共放送協会『NOS』のラジオ番組に出演した元ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のヘニー・マイヤー氏だ。 【動画】日本サッカー史に刻まれた豪快弾 マイヤーのJ第1号をチェック マイヤー氏が決めた「日本サッカー史に残るゴール」は、まさにセンセーショナルな一撃だった。 1993年5月15日、列島中の関心を集めた横浜マリノスとの国立競技場でのJリーグ開幕戦で、同氏は三浦知良と武田修宏とともにスタメンに抜擢。5万9626人がチアホーンを鳴らす中、背番号7は19分にペナルティーエリア外の左隅で相対した小泉淳嗣を右にかわし、視界が開けた瞬間、右足を振ってゴール右上を射抜いた。 本人が「本能的な得点だった」と回顧する豪快な一撃は、記念すべきJリーグ第1号として歴史に刻まれた。しかし、Jリーグ黎明期を彩った伝説のチームは個性派揃い。それぞれの強い想いが交錯する中でチームは意思疎通を欠き、当時はしきりに「内紛」が伝えられていた。 1990-91シーズンにはエールディビジ(オランダ1部)で最優秀選手に輝いていたマイヤー氏にも自負があった。ゆえに日本での経験はショッキングであった。『NOS』のインタビューに応じた元オランダ代表FWは、「何もかもが新しかった。そして日本はオランダとは違うのだと気づかされた」と振り返っている。 「当時の日本のサッカーはオランダと大きく異なっていて、戦術ってものがほとんどなかった。ときどき選手たちは適当にプレーをしているように見えたし、純粋にゴールを決めることに重きを置いていた。『とにかく(ゴールを)決めろ』っていう感じだった」 そんな日本のスタイルにショックを受けながらも「自分ができることは何でもやった」というマイヤー氏は、伝説となったJ第1号の舞台裏を赤裸々に話す。 「(自分のゴールは)評価はされなかったと思う。彼ら(ファンや関係者)は日本人選手が、Jリーグで最初のゴールを決めることを期待していた。だから、あの時の私をチームメイトも快く思っておらず、練習や試合で無視もされた。私たちはチームなんてものじゃなかったんだ」 クラブ内におけるありとあらゆるコミュニケーション面の不足が原因だったのは想像に難くない。しかし、発展途上だった日本サッカーの水に馴染めていなかったマイヤー氏は、事実上のクビを宣告された時も自然と納得できたという。 「数試合(実際は11試合)に出た時、私はクラブの会長から呼び出された。そして、『チームと相性が良くないね』と言われたよ。何が起きているかはよく分かっていた。でも、それ(クビ)でも良かったんだ。どうせ、あの状況でサッカーをやっていても楽しくなかったからね」 一発屋のイメージとともに7月にヴェルディ川崎との契約を解除したマイヤー氏は、母国に帰国。古豪ヘーレンフェーンなど4チームを渡り歩き、1998年に現役を引退。激動のキャリアに幕を下ろした。 [文/構成:ココカラネクスト編集部]