伊藤比呂美「ベルリンで、カノコと」
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬2匹(クレイマー、チトー)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。今回は「ベルリンで、カノコと」。ベルリンで、ご自身の詩「わたしはあんじゅひめ子である」四部作をさまざまなアートで表現しようという企画があったそうで――(画=一ノ関圭) * * * * * * * ベルリンで「あんじゅひめ子大会」やってます。あたしの詩「わたしはあんじゅひめ子である」四部作を、ダンスと音楽とアート、そして朗読で表現しようという企画だ。 あたしはどういうわけかベルリンに縁があり、今もいるけど、去年の夏も長逗留していたのだった。そのとき、ベルリン在住のダンサー、可世木(かせき)ユウコさんと一緒にやったらどうかという話が持ちあがり、ユウコさんは旧知なので二つ返事で引き受けたが、だったら音楽があるといいねということになり、ユウコさんはずいぶん昔にカノコから紹介された仲であるからして、そんなら音はカノコだよねということになり、あれよあれよという間に話が大きくなって、在ベルリンのアーティスト、森トモコさんと江刺(えさし)サエさんにもヴィジュアルで協力してもらうことになり、今、全員で集結して連日必死の練習中。 みんな、全員、国は違えど、日系の移民であるのが共通点だ。 ところがこの詩、説経節の「山椒太夫」を恐山のイタコが語っていたバージョンを元にして、あたしが鬱のどん底でもがきながら書いたものだから、めちゃくちゃ暗い。父には捨てられ、砂には埋(い)けられ、母は粟畑の雀追いだし、この男にもあの男にも酷い目に遭わされてばかりだし。
三十年ほど前、あたしは、ほんとうに、男たちと、夫含めて、ぜんぜんうまくいってなくて、そのストレスがこり固まって鬱になり、それを一切合切「父」という言葉にこめてぶちまけた。まあそういう詩だ。 それを朗読するからおどろおどろしいし、ユウコさんはブトー系の動きでそれを表現しようとするから、さらにおどろおどろしい。そしてカノコの箏は六段とか春の海とかじゃなく、インプロ(即興)箏なので、砂をかけたり叩いたりこすったりする。やはりいくらでもおどろおどろしくなるのだった。 「あんた、もう少しキレイな音を出してよ」とあたしがカノコに言う。「えー、そんなのやりたくない」とカノコが反発する。「おかあさんが入ってからカノコが入るのに、おかあさん遅れる」とカノコがあたしに言う。それが、声も話し方も、昔のまんま。40になる女が、日本語をしゃべると、すっと12歳に戻ってしまう。この場で「おかあさん」はへんだから、呼び方変えてよと言ってるのに、なかなか改まらないしね。 ユウコさんは身ひとつで、母になり娘になって大活躍だが、娘が生き別れた母に会う場面で、ユウコさんが母になり、カノコが娘になって、二人で箏を抱えて歩く。カノコはせつせつと箏を弾き続ける。そのときあたしは柱の陰で、娘に会いたいとか自分がその娘ですとか朗読しているだけで、目の前で、自分の娘が、よその女(ユウコさん)とぴったり母娘になるのを見ている。これも、今までに味わったことのない、めちゃくちゃ不思議な気分である。