道長は疫病で苦しむ民より自分の浄土往生を心配していた!? 実資が激怒した道長の自分ファーストな振る舞い
NHK大河ドラマ「光る君へ」第47回「哀しくとも」では、刀伊の入寇について隆家(竜星涼)から被害状況が伝わるも、様子見で済ませようとする摂政・頼通(渡邊圭祐)に対して、太閤・道長(柄本佑)が民の被害を引き合いに出して叱責する場面が描かれた。しかし、史実の道長は晩年浄土信仰に傾倒し、同時期には ■浄土に往生すべく無量寿院造営の一大事業を決断 藤原道長といえば、やはり「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」の歌が有名だろう。解釈には諸説あるが、多くの人にとってこの歌は道長の「栄華を極めた象徴」なのである。 兄2人の死によって家を背負うことになり、甥の伊周・隆家との政争に勝利。娘の彰子を一条天皇に、妍子を三条天皇に、威子を後一条天皇の妻としたことで前例のない「一家立三后」を成し遂げた。そして天皇の外戚として長らく権力のトップに君臨したのである。 そんな道長も、晩年には浄土信仰に傾倒した。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教えに従い、自らの往生を願うようになったのだ。 道長は健康に不調をきたすようになり、寛仁3年(1019)に剃髪して出家した。ほぼ同時期に起きたのが、道長の甥である藤原隆家が活躍した「刀伊の入寇」だ。6月には陣定で恩賞について協議された。この事件に対して朝廷が日和見主義的な対応だったのは言うまでもないが、道長自身もどちらかというと自分の死後のことに心が向いていたようである。同年7月には無量寿院(法成寺)の造営を開始したのだ。道長はこの事業に心血を注いだ。 無量寿院は、土御門殿に隣接する土地に造営されることになった。本尊は9体の阿弥陀如来像で、いずれも道長の息子たちが父の意向に従って造立したという。そして、無量寿院の造営には金と資材と人手がこれでもかというほどにつぎ込まれた。 藤原実資の日記『小右記』には、7月17日条に「十一間堂の各一間を受領一人に充つ」とある。つまり、諸国の受領たちを動員し、工事を分担させたというのだ。出家してもなお一定の権力を握っていた道長に良い印象を与えたい……今後の出世や人事にこの機会を活かしたい受領たちはこぞって奉仕したという。 さらに、実資は治安元年(1021)2月に道長が公卿までも動員して無量寿院の講堂の礎石を曳かせたことを記している。当時都には疫病が蔓延しており、人々が不安な時期に自らの浄土往生を願うための、いわば“私的な事業”に受領や公卿を動員することに対して、「万人が悲嘆している」と非難したのだった。 さらに、疫病がおさまらないなか、藤原斉信が道長のもとを訪ねて打開策を相談した際も、それらには一切耳を貸すことなく、他の話に興じたという。この時の道長の態度についても、実資は日記で批難している。 御堂の落慶法要が行われた際には、太皇太后・彰子、皇太后・妍子、皇后・威子の「三后」が行啓して盛大な儀式が執り行われた。『栄花物語』は、道長一族の栄華の到達点として、無量寿院の壮麗な姿を詳細に描く。しかし、その陰には、権力者・道長の「死後は浄土に往生したい」という願いを叶えるために無理を強いられた受領や公卿、そして十分に顧みられることもなかった民の苦しさや悲しみが隠れていたのである。
歴史人編集部