「皇帝のものか神のものか」中国地下教会の受難
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。聖書にあるイエスの言葉は、政治と宗教が絶えず緊張をはらんできた歴史を物語っている。 【写真】中国「地下信徒」の家の内部 キリスト教カトリックの総本山バチカン(ローマ教皇庁)で10月、フランシスコ教皇の下に世界各地の司教らが集う重要会議「シノドス」が開かれた。2018年に中国とバチカンが司教の任命に互いの関与を認める暫定合意に達した後、中国の司教もここに参加できるようになった。 数十年にわたり反目してきた両国の「和解」を象徴する日の当たる舞台であり、会議期間中には暫定合意の延長も発表された。だが、目を凝らすと、中国の信者が直面する「影」もまた見えてくる。 今回シノドスに出席した中国の司教2人は共産党の指導下にある宗教組織「中国天主教愛国会」の幹部だ。うち一人はかつて教皇に背いて中国政府の承認のみで司教を名乗り、バチカンから破門された経験さえある。 党や政府に忠実だった聖職者が今や中国のカトリック代表として振る舞い、バチカンで教皇に謁見する栄誉を得た。対照的に、教皇への忠誠を貫いてきた地下教会の聖職者は監視や拘束などの迫害にさらされている。 特定の信仰を持たない私のような部外者は、政治的な思惑によって「異端」と「正統」が入れ替わったような違和感を覚える。 ◇「踏み絵」で分断の危機に 中国とバチカンは1951年から断交状態にある。バチカンは欧州で唯一、台湾と外交関係を持つ国だ。 中国政府は長く教皇が持つ司教の任命権を「内政干渉」と批判し、国内信者は、政府の管理を受け入れた公認教会と、教皇への忠誠を貫く非公認の地下教会とに分裂した。 6年前の暫定合意で対立は解消したはずだが、地下教会の苦境はむしろ深まっている。 「教会を追われて住む場所を失った神父や修道女がやむなく信徒の家に身を寄せています」。浙江省の地下教会信徒がそんな実態を明かした。 その証言によると、地元の教会には監視カメラが設置され、締め付けが厳しい時期は仲間の家で祈りをささげるしかないそうだ。未成年者は教会への立ち入りが禁止され、クリスマスの時期には公安関係者が監視にやって来る。 中国当局は地下教会の聖職者に対し、共産党の指導を受け入れて外国の干渉を拒絶する「宗教の中国化」政策に従うという趣旨の誓約書に署名するように迫っている。 「踏み絵」とも言えるこの措置によって地下教会は分断の危機にある。「政府と教皇への服従は両立しない」と署名を拒んで非公認の立場にとどまる者もいれば、「教会の統合こそが教皇の意思」として署名に応じて公認教会に合流する者もいる。 ◇「干渉」封じる中国のしたたかさ 厳しい信仰の現場から浮かび上がるのは「内と外」に一線を引く習近平指導部の対バチカン政策のしたたかさだ。 対外的には、世界的な影響力を持つ教皇と接近することで大国としての存在感を示し、台湾を孤立に追いやって悲願の「祖国統一」につなげようとしている。 同時に、国内では外国からの「内政干渉」を拒む宗教政策は維持したままだ。教皇の威光を信者の統制強化に利用しながら、バチカンによる直接関与は封じている。 実際、暫定合意後の21年に施行された宗教指導者の管理規則は、従来通り「国外勢力の支配を受け、無断で外国の組織から聖職者の任命を受ける」ことを禁じている。司教の任命手続きを定めた条文を見ても、バチカン側の関与には全く触れていない。 共産党が現在もなおキリスト教を西欧の価値観と深く関わる危険因子と警戒していることが見て取れる。 一方で、バチカンとしては、教皇と信者のつながりを回復し、教会の分裂を解消することが対中接近の大義である。首相にあたる国務長官のパロリン枢機卿は「我々が中国で安定したプレゼンス(影響力)を持つ」ために、中国に常設事務所を設置する希望を表明している。 ただ、通常の国家と違い、バチカンの使節は基本的に高位の聖職者だ。中国からすれば、自国の信者と接触する拠点になるリスクをはらむ。習指導部がたやすく受け入れるとは考えにくい。この問題は、将来の国交樹立に向けた信頼醸成の障害にもなり得る。 ◇「時間に委ねる」ある神父の覚悟 こうした現状を憂慮する声は地下教会だけにとどまらない。ある公認教会の神父は「教皇と中国政府が歩み寄る意義は大きく、前向きな一歩だと思います。しかし、地下教会の声がかき消され、自由が奪われているのも確かです」とため息をついた。 この神父が管理する北京近郊の教会には毎週日曜のミサに100人近い信徒が集う。礼拝堂を案内してもらうと、十字架などの聖具から信徒の座る長椅子に至るまできれいに磨き上げられていた。 神父は「私は公認教会に属していますが、信仰心は政府ではなくバチカンに向けられています。本質的な部分で(地下教会との)違いはありません」と述べた。そのうえで「教会分裂の原因は、政府の宗教政策にあります。信仰の自由や権利が保障されれば、おのずと教会は一つになれるのですから」と強調した。 信者を翻弄(ほんろう)する政治と宗教のせめぎ合いについて問うと、神父は「問題の解決は時間に委ねたいと思います。2000年に及ぶ教会の歴史において迫害はつきものでしたが、信仰が途絶えることはありませんでした」と語った。 その言葉を聞いて、私はこの記事の冒頭で紹介した聖書の一節を思い出した。 強大な権力であっても、神の領域である心の自由は奪えない――。穏やかな神父の表情に秘められた決意と覚悟が、習指導部が最も恐れるものだという気がした。【中国総局長・河津啓介】