皇后雅子さまの"肉声スクープ会見" 週刊誌の元"番記者"が振り返る舞台裏
「外務省の省員として仕事をしていく」と雅子さま
当時、天皇陛下は、皇太子殿下としてベルギーで開かれていた博覧会「ユーロパリア・ジャパン」の開会式に参列のため、ヨーロッパに滞在中でした。その帰路に立ち寄られるパリでは、「雅子さまとの再会の場が設けられる」との噂が広がっていたのです。 この朝、オックスフォードの閑静な住宅街、バードウエルロードに借りていたワンルームのアパートから出かけた雅子さまは、待ち構えていた日本からの記者やレポーター、カメラマンの質問を受け、そう言葉を返されました。さながら東京の代官山のような街並みを足ばやに歩く雅子さま。そんななかに35年前の私もいたのです。 記者:これまでに何度か殿下とはお会いになっていますが、どんな方ですか? 雅子さま:申し訳ありませんが、そういう質問にはお答えできません。とにかくわたくしはお妃問題には関係していないと思っておりますので……。 記者:英国から帰国されても同じ状態でしょうか。今後も外務省で仕事を続けられるということですか? 雅子さま:わたくしは外務省の研修生として研修している身でして、研修が終わりましたら、外務省の省員としてずっと仕事をしていくつもりです。 記者:つまり、宮内庁からオフィシャルなお話はないということですね? 雅子さま:はい。ですから、みなさまも、もう取材はなさらないでください。 雅子さまはそうよどみなく話され、丁寧なお辞儀をして図書館前から去って行きました。
撮影フィルムをヒースロー空港から空輸
「雅子さんの肉声が取れました。写真もたくさんあります」 私はさっそく東京の編集部へ電話すると、「今週の締め切りに間に合う。いますぐ、ヒースロー空港のカーゴに持ち込め」と、デスクの声が響きました。 私は、そのインタビューの様子を撮影したフィルムを、70kmほど離れたロンドン郊外はヒースロー空港のカーゴエリア(航空貨物)へ運びました。当時はまだデジタルカメラの時代ではなく、入稿するフィルム素材は航空便で送るしかなかったのです。 しかも、「その日の便に間に合わなければ、記事は翌週回しとなる。なんとしても間に合わせろ」とのこと。そこで、朝からチャーターしていたタクシーに飛び乗りました。150kmを超えるような猛スピードと感じましたが、とにかく高速道路をすっ飛ばしてくれ、日本への貨物の最終扱い時間に滑り込んだ記憶があります。ひどい車酔いとなりましたが……。 このときのインタビューのやりとりは、現地にいたテレビ局のワイドショーや、取材の場にはいなかった他のメディアにより、翌週以降「小和田雅子さまが、お妃拒否宣言!」というような内容で伝えられました。私は腹が立ちました。 けれどもその4年後、このインタビューは「皇太子さまご婚約内定」の際、大きな話題となっていくのです。それは、1993年1月6日のご婚約内定報道の際、唯一の「雅子さまのスクープ肉声」として、テレビで繰り返しオンエアされたからでした。結果的に大金星になりました。