パレスチナという土地はあるが国はない。単なる「宗教対立」では語れないパレスチナ問題の発端
シオニズムをあおった「帝国主義」の風
しかし、考えてみれば、不思議な発想である。既に人々が住んでいる土地に、ヨーロッパ人が移り住んで、新しい国を創ろうというのである。前から住んでいた人々の都合などは、そこでは真剣に考慮されていない。なぜ、こうした発想が出てきたのだろうか。 それは、19世紀末が民族主義の時代であると同時に、帝国主義の時代であったからである。帝国主義というのは、ヨーロッパの大国が、またはアメリカが、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカを自分たちの都合だけで自由に分割し、支配する構図をさす。 この時期のヨーロッパやアメリカの人々は、勝手に世界を動かしていた。こうした時代の発想であったからこそ、現地(パレスチナ)の人々の意向を無視してのパレスチナでのユダヤ人の国家建設が始まった。シオニズムをあおった第二の風は、帝国主義であった。 シオニズムを推進する人々をシオニストと呼ぶ。シオニストたちは、パレスチナの地主たちから土地を購入して移住し、そこで農業を始めた。しかし、そうすると、パレスチナ人の地主の土地を耕していたパレスチナ人の農民は、土地を追われる結果となった。なぜならば、ユダヤ人たちは、自分たちの手で土地を耕作したからであり、パレスチナ人を雇用しなかったからである。この考え方の背景には、次のような認識があった。 ヨーロッパにおけるユダヤ社会は、いびつである。なぜならば、地に足のついた生活をしている人々、つまり農民が少なかったからだ。 当時のヨーロッパの「普通」の社会では多くの農民がおり、そして比較的に少数の商人などがいた。しかし、ユダヤ人の場合は逆であった。 ユダヤ人の伝統的な仕事は、金貸しであり、商売人であり、仲買人であり、医者であり、弁護士であり、研究者であり、芸術家であり、音楽家であった。つまり組織に頼らず、自分の才覚のみで生きていた。これはユダヤ人が差別された結果であった。
第3の風「社会主義」がパレスチナ人の排除を生んだ
ヨーロッパでは多くの場合、ユダヤ人は伝統的に居住地域を限定されており、その外には住めなかった。こうしたユダヤ人地区をゲットーと呼ぶ。となれば、大半の場合には農民になどなれるはずもなかった。ユダヤ人の社会は、次の図で紹介しているように、地に足のついていない不安定な逆三角形であった。 シオニストたちは、パレスチナでは普通の三角形の社会の建設を望んでいた。つまり、多くのユダヤ人が農民となり、地に足のついた生活をおくる。それがシオニストたちの農業への愛着の源泉であった。 自らの手で土を耕す。これこそが、シオニストの夢であった。この考え方に拍車をかけたのが、やはり、この時期のヨーロッパにおける知的な風潮の社会主義であった。この社会主義が、民族主義、帝国主義とともにシオニズムを駆り立てた第三の風である。 この思想は、搾取(何も持たない人を安い賃金で雇うこと)を悪とする。理想は搾取なき社会であり、私有財産の所有に否定的である。 シオニストたちは、パレスチナ人の不在地主(その地に住んでいない地主のこと)などから土地を購入し、そこにキブツと呼ばれる共同農場などを組織して、共同作業に従事した。そこでは、各自最低限の私有財産しか保有しなかった。 問題はパレスチナ人の地主に雇われていたパレスチナ人の小作農である。シオニストたちは、自ら直接に農作業に従事したので、小作農は必要としなかった。シオニストが土地を購入すると、そこからはパレスチナ人が排除された。 ヨーロッパの進んだ農業技術と資本が、現地の労働力(パレスチナ人)と融合することはなかった。ヨーロッパの飛び地であるキブツなどの農場が、伝統的なパレスチナ社会と接点もなく併存したのである。
TEXT=高橋和夫