プラットフォームに欲望を支配された人類に今こそ必要な「庭」という考え方
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】プラットフォームに欲望を支配された人類に今こそ必要な「庭」という考え方 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
プラットフォームから「庭」へ
人間の眼は誰かと眼を合わせるためだけのものではない。人間の手は、誰かの手を取るためだけのものではない。その眼は空を見て、星を見て、宇宙を観ることもできるし、その手はスプーンを持ち、ハサミを用い、弓を引くことができる。 人間の身体と精神には人間外の事物とのコミュニケーションを経ることではじめて発動する能力があり、芽生える欲望がある。人間は人間外の事物とのコミュニケーションの可能性に開かれた存在だ。 しかし、21世紀の人類はその可能性を、なかば無自覚に手放そうとしている。 したがって、私たちは(人間間の相互評価のゲームによる承認の交換を相対化するために)人間外の事物とのコミュニケーションを回復しなければならない。実空間が情報技術に汚染されたいま、プラットフォームの外部に逃れることはすでに難しく、そしてプラットフォームを複数化することでは問題の本質にアプローチできない。 だからここでは、このプラットフォーム化した世界を内破して、変質させる方法を考えてみたい。国家から市場へ、メディアからプラットフォームへ、では次はなにか? ここではその次のものを「庭」の比喩で考えたい。 なぜ「庭」なのか。プラットフォームには人間しかいない。それも画一化された身体をもつ人間しかいない。そして人間間のコミュニケーションしか存在しない。 しかし「庭」は異なる。「庭」は人間外の事物にあふれている場所だ。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交う。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成している。人間が介在しなくとも、そこには濃密なコミュニケーションと生成変化が絶えず発生している。 「庭」を得て、そこを訪れることで人間は人間外の事物に接し、それらにかかわることで人間間の相互評価のゲームから相対的に離脱する。プラットフォームの与える画一化された身体ではコミュニケーションできないものに触れることで、本来の多様な身体を取り戻す。その眼は他の人間と眼を合わせることから解放され、その手は他の人間と手をつなぐことから解放される。 しかし、同時にそこはあくまで人間の手によって切り出された場だ。完全な人工物であるプラットフォームに対して、「庭」という自然の一部を人間が囲いこみ、そして手を加えたものは人工物と自然物の中間にある。 だからこそ、人間はその生態系に介入し、ある程度までコントロールできる。岩が置かれ、砂利が敷かれ、砂が撒かれている。しかし、完全にコントロールすることはできない。 そこは常に天候の、季節の移り変わりの影響を受け、草花の、虫たちの、鳥の、獣の侵入を受け変化しつづける。人間はそこに関与し、変化を与えることができるがその結果をコントロールすることができない。 「庭」とは、その意味において不完全な場所だ。しかし、だからこそそこはプラットフォームを内破する可能性を秘めているのではないか。 「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。 そして「庭」とは(私企業のサービスにすぎないSNSプラットフォームのように)、私的な場である。しかしその場は半分だけ、公的なものに開かれている。それぞれの「家」の内部と外部の接点としての外庭があり、そして家事や農作業、あるいは集団礼拝や沐浴の場としての中庭がある。 「家」の内部で承認の交換を反復するだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている。 事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。 そしてサイバースペースはもちろんのこと、今日においては実空間すらも「庭」としての機能はあらゆる場所から後退している。だからこそ、このプラットフォーム化した社会をどう「庭」に変えていくのか。それが本書の主題だ。 この世界に「庭」を、多様な人間外の事物との豊かなコミュニケーションが可能であり、その生態系に(支配することなく)関与する場を、どう手にするのか。それを、サイバースペースと実空間、両方の面から考えていきたいと思う。