プラットフォームに欲望を支配された人類に今こそ必要な「庭」という考え方
いまこの時代に求められる「庭」とは
「庭(ニハ)」という言葉は、かつては現代とはやや異なる用いられかたをしていた。いくつかの辞書を引いて古語におけるその意味を調べると、それは現代語の「場」と同じような意味であったことが記されている。 たとえば当時は狩をする「狩場」を「狩庭」と書いていた。漁労をするのは「網庭」、稲作をするのは「稲庭」、草刈りをするのは「草庭」、製塩をおこなう場所は「塩庭」と呼び、さらに戦闘、交易、芸能、仏神事のおこなわれる場所をそれぞれ、軍庭、市庭、売庭、乞庭、舞庭、祭りの庭、講の庭などと呼んだという。 共通しているのは、そこが人間が何かの事物とコミュニケーションを取るための場所であった、ということだ。その対象は、人間というよりはむしろ人間外の事物であった。農作物や獲物であり、それらを用いて製作される道具たちであり、そしてときにこれらの事物に宿る仏神たちであった。この性質は今日の主に観賞を目的に造られる庭にも、引き継がれている。 そして「庭」という言葉は、単に「場」を示すものから、徐々に家屋の内部または隣接した場所のなかで、とくになんらかの事物を対象に作業をする空間のことをさすものに変化していった。そこは、人間の私的な領域と公的な領域とを接続する蝶番のような場所だった。 だからこそ、やがて社会的な分業が進行し、その場所が観賞用の、つまり「観る」ためのものに変化したとき、「庭」はそこに暮らす人びとの世界観を象徴的に表現するものとして機能するようになったのだ。 一、地形により、池のすがたにしたがひて、よりくる所々に、風情をめぐらして、生得の山水をおもはへて、その所々はさこそありしかと、おもひよせたつべきなり 一、むかしの上手のたてをきたるありさまをあととして、家主の意趣を心にかけて、我風情をめぐらして、してたつべき也 一、国々の名所をおもひめぐらして、おもしろき所々を、わがものになして、おほすがたを、そのところになずらへて、やハらげたつべき也 この3ヵ条は、世界最古(平安時代末期に成立)の造園の指南書とも言われる『作庭記』に記された、造園の基礎となる心得だ。ここで主張されている心得を本書の文脈で現代的に言い換えると、おおむね以下のようになる。 まず、「庭」とはその家屋の置かれた地形に基づいて造られた実際の自然のミニチュアであるということ、次にその造型に造園家や家主の世界観が反映された作品であるということ、そして最大の参照先はさまざまな土地に実在する景勝地であるということだ。 つまり『作庭記』における「庭」とはまずその土地の個性を引き出し、そこに人間のメッセージを、他の場所に存在する自然の生みだした美をかけあわせることで表現するものなのだ。 かつてのバロック式庭園が人間が理性を用いその人間の秩序に自然の秩序を従わせることへの欲望を、園林が現世には存在しえない桃源郷への欲望をそれぞれ体現したように、人類の歴史のなかで、「庭」とはその時代の人間が考える理想の世界像を体現する場として造られてきた。 では、いまこの時代にあるべき「庭」とはなにか。ここではそんな、「庭の話」をしたい。 さらに連載記事<インターネットが実現した「多様性」を人々がこぞって捨て去ろうとしている「悲しき現実」>では、現代の情報社会が直面している問題点をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
宇野 常寛(評論家)