「職業の貴賤」の感覚が染みついた人は、自分のために生きられない
世間体や周囲の目を気にして、「偽りの自己」として生きている人は多いものです。しかし、人生の後半に差し掛かり「本当の自己」の人生を生きたいと考えた時、私たちはどのように生き方を変える必要があるのでしょうか。書籍『本当の人生』(PHP研究所)で、精神科医の和田秀樹さんが、自身の経験を交えながら、「本当の自己」を実現するために必要なことを語ります。 【自信がわいてくる言葉】「劣等感で苦しい人生」を抜け出すには... ※本稿は、和田秀樹著『本当の人生』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
自分を縛るものは自分の内にある
本当の人生の実現を阻害するものは、自分にあるのだということを知ってほしいのです。たとえば、見栄とか世間体とかいうものです。 娘の結婚式のときに、自分の職業は恥ずかしくないものにしたいとか、年甲斐もないと言われたくないとか、そういうものが、本当の自己実現を妨げるとしたらもったいない話です。 自分のこれまでの人生が「偽りの自己」の人生で、これからは「本当の自己」になって本当の人生を歩む際にしてほしい意識改革として、自分だけでなく、世間とか周囲の社会の人たちも偽りなのだということも理解してほしいのです。本当はうらやましいけど、まだ自分には会社も家族もあるという人はたくさんいるのです。 本当の人生は予想したより長いものではあるけど、一度しかないことには変わりありません。たった一度の人生だし、無限ではないのですから、あのとき、やっておけばよかったという後悔をしないためにも、世間体とか人目を気にしてほしくないのです。どうせ、その声は、「偽りの自己」のものだと開き直ってほしいのです。 『嫌われる勇気』で日本でもおなじみになったアドラーは、「人目の奴隷になるな」と言っていますが、社会生活を送っている間は、そうもいかないことも多いでしょう。しかし、本当の人生を送ることになった際は、法律は気にしても人目は気にする必要はないのです。 ほかに自分を縛るものとして、社会生活を送っていた時期、つまり「偽りの自己」でいた時期に自分に染みついた価値観や道徳観があります。欲望のままに生きると言われた際に、そんなのは人間として恥ずかしいと考える人もいるでしょう。 もともと、しつけとか道徳とかいうものは、「本当の自己」で生きる幼児や小児を、社会適応させるために、「偽りの自己」に育てる過程とも言えます。その際に、「そんなことをしてはいけません」より強力なものが、「そんなことをしては恥ずかしい」なのだと私は考えます。命令であれば、いやいや従うでしょうし、自分ががまんしていることがわかります。 でも、恥ずかしいことは、恥をかかなくていいように、自分で自分を縛るのです。本当の自分で生きたいと思っても、そんなことをしては恥ずかしい、自分にはできないとブレーキをかけることがあるでしょう。 恥ずかしいというのは、もちろん自己制御のために持つことのある感覚ですが、通常は、人目を気にしてのものでしょう。人に笑われるとか、バカにされるというのが恥ずかしい感覚ではないでしょうか? 何度も言いますが、このときの人目というのは、社会的に生きている人の目、「偽りの自己」を生きている人の目です。あなたが恥ずかしいと思うようなことを堂々とやった場合、もう「本当の自己」の世界にいる人たちから見ると、「楽しそうでいいね」という話になるのかもしれません。 しつけの中で価値観を植え付けられ、それが自分を縛ることもあります。私の母親は私に勉強しろと言ったことのない人でしたが、今思うともっとひどい形で、勉強に仕向けた気がします。 大阪に天王寺公園という大きな公園があるのですが、私が子どもの頃は、福祉がろくになかったこともあって、当時"ルンペン"(今日では不快語とされています)と言われるホームレスがいっぱいいました。今のホームレスはファストファッションなどを着ているので、そこまではみすぼらしくないことも多いのですが、当時は本当にぼろを着ていました。 今なら差別と言われるでしょうが、「あんたは人に好かれる人間やないから、勉強せえへんかったら、あんな風になるで」と言われたことを今でも覚えています。「あんな風」になりたくなくて勉強して、今の私があるのですが、その後、長い間、私は貧乏恐怖から働いていた気がします。 ところが、歳をとるというのは不思議なもので、今はホームレスの人を見ていると(そんなに甘いものではないのでしょうが)気楽でいいなとか、世間体から自由になれていいなとかうらやましく思えることがあります。 東大除籍(その時点から無頼ともいえるのですが)で直木賞作家の田中小実昌さんが、歳をとってからは、ふらふらと公園のコンクリートパイプで寝るような生活をしている話をカッコいいと思うようにもなりました。 今は、私もそれなりにまともな生活をしていますし、本が売れてからはかなりの贅沢をしています(ただし、貯金はほとんどありません)が、なんとなくそれが仮初めの姿のような気がします。少なくとも小さい頃から染みつけられた価値観が、多少は変わってきたようです。