水戸二連隊玉砕 ペリリュー島に集団埋葬地 慰霊会と国特定 遺骨収容の加速期待 茨城
太平洋戦争の激戦地となり、陸軍歩兵第二連隊(水戸二連隊)を主力とする日本軍守備隊が玉砕したパラオ・ペリリュー島で、日本人戦没者の集団埋葬地が見つかった。同島で遺骨収集を行う「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」が入手した情報が端緒となり、厚生労働省と11年間の調査を経て特定した。米国の資料によると、千柱以上が埋葬されている可能性がある。慰霊会関係者や遺族は、遺骨収容の加速化に期待を寄せる。 ■主力部隊 太平洋戦争末期の1944年9~11月、同島で日米両軍による激戦があった。厚労省によると、日本側の戦没者は約1万200人。日本軍の守備隊で中核を担ったのが茨城県水戸市で編成された水戸二連隊だった。「水戸歩兵第二聯隊史」によると、同隊では県内の1980人を含む3317人が戦死した。 遺骨収集は52年度から行われ、今年9月末現在、7799柱が収容された。戦友や遺族らで構成される慰霊会や日本戦没者遺骨収集推進協会が、国と協力して進めてきた。 慰霊会に「集団埋葬地があるかもしれない」との情報が寄せられたのは2013年。同島で出会い、交流を深めていた米国の戦史研究家、ダニエル・キング氏が、米海軍設営隊博物館所蔵の地図資料に「JAP・CEMETERY(日本人墓地)」の記載を発見し、慰霊会に連絡した。 同年、慰霊会と厚労省が調査に着手。米国立公文書館の資料などから、集団埋葬地の位置情報(グリッド情報)や、埋葬者数が「1086人」とされる記録を確認した。 ■執念の調査 現地調査は難航した。資料で位置情報は「141 W1」とされており、該当する100ヤード(約91メートル)四方の中を試掘したが、見つからなかった。 23年に慰霊会の影山幸雄事務局長(79)=水戸市=が、現地を55回訪れた経験から「そこにこだわらずに痕跡を探したらどうか」と提案。調査範囲を周辺まで広げたところ、同年10月、慰霊会の小嶋英嗣さん(65)=東京都国立市=が、鉄くいが並ぶ約31メートル四方の一帯を発見した。 その場所から今年5月に2柱相当、9月には新たに5柱相当の遺骨が並んだ状態で見つかり、厚労省は集団埋葬地だと判断した。小嶋さんは「周辺には車両の破片など戦場の名残があるのに、そこだけ廃棄物が一切なかった。間違いなくここだろうと直感した」と振り返る。 一帯の位置情報は「141 V2」に当たり、資料に記された場所からは約150メートル離れていた。 ■「感無量」 集団埋葬地が見つかり、遺骨収容の加速化が期待される。米国の資料通りであれば、未収容の約2400柱の半数近くが埋葬されていることになる。影山事務局長は「10年越しに見つかり、本当によかった。遺族が高齢化している。早急に収容してほしい」と願う。 厚労省は集団埋葬地の特定を受け、同島関連の25年度予算を9300万円へと倍増する方針。「同島での遺骨収集の体制を強化する」としている。 父親が水戸二連隊の大隊副官を務めていた慰霊会の前会長、園部満さん(85)=水戸市=は「他の遺族が亡くなっていき、時代の流れをひしひしと感じる中で集団埋葬地が見つかり、とても感慨深い。私の父も眠っている可能性がなきにしもあらず、感無量だ」と話した。 ★ペリリューの戦い 西太平洋のパラオ諸島の一つ、ペリリュー島で1944年9月15日~11月27日にかけ、日米両軍が激戦を繰り広げた。日本側の戦没者数は1万人以上。守備隊の中核は水戸二連隊。「戦史叢書(そうしょ)」などによると、数日以内に同島を攻略する計画の米軍に対し、日本側は島全体の地下洞窟に陣地をつくり要塞化した。開戦直後の攻防が激しく、9月19日までに同連隊の3分の2以上が戦死したが、地下陣地を拠点にゲリラ戦を展開。11月下旬に組織的戦いを終えるまで徹底抗戦した。47年4月、日本側の生存者34人が米軍に投降した。
茨城新聞社