ホロコーストの犠牲になった少女アンネ・フランクの短い人生と「その後」
厳しい状況の中、1942年6月12日、アンネは13歳の誕生日を迎えました。両親から誕生日プレゼントとしてもらったのは格子柄のサイン帳。このプレゼントをアンネはとても喜び、日記帳として使い始めます。
「隠れ家」での生活
オランダでの「ユダヤ人狩り」が日毎に激しくなった1942年7月5日、姉のマルゴーにナチスからの出頭命令(労働キャンプへの召集令状)が届きました。「マルゴー一人を行かせるわけにはいかない」と考えたフランク夫妻はマルゴーを出頭させず、翌7月6日、すでに準備していた「隠れ家」にそっと移動しました。
一週間後の1942年7月13日にはファン・ペルス一家(夫妻と息子のペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも隠れ家に合流し、合計8人で息を潜めて暮らしました。 3世帯が狭いスペースで同居し、食料も足りず、トイレも好きな時間に行けない。空爆があっても外に逃げることもできません。隠れ家での生活は、大人にも子供にも辛いものでした。
アンネの寝室はプフェファー(入居時53歳)と同室。そのこともティーンエイジャーの彼女には辛いことでした。
アンネと家族たちの最期
支援者の協力のもと何とか営んでいた隠れ家生活ですが、2年で終わりを告げます。 1944年8月4日、ナチスのSD(親衛隊保安部)によって隠れ家が発見され、8人は逮捕・連行されます。なぜ発見されたのか?について、真相は不明です。しかし密告があってのことだったと考えられています。 アンネたちは数カ所を経由した後、1944年9月3日にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に到着しました。しばらくは女性棟で母と一緒に過ごせましたが、1944年11月頭にアンネとマルゴーはベルゲン・ベルセン強制収容所に移送。劣悪な環境かつ食事もほとんど与えられず、発疹チフスにかかっていた2人は衰弱しました。 1945年2月、まずマルゴーが息を引き取り、そしてアンネも姉を追うように亡くなりました。アンネ15歳、マルゴー19歳の短い生涯でした。