実際に日本の学校で起きた「葬式ごっこ」の壮絶実態…いまだ変わらない「いじめの構造」
学校とはどのような場所なのか、いじめはなぜ蔓延してしまうのか。学校や社会からいまだ苦しみが消えない理由とは。 【写真】じつは知らない、「低所得家庭の子ども」3人に1人が「体験ゼロ」の衝撃! いじめ研究の第一人者によるロングセラー『いじめの構造』で平易に分析される、学校でのいじめ問題の本質――。
葬式ごっこ
1986年、東京都中野区立富士見中学校2年生のC君は、たびかさなる暴力や言葉によるいじめを受け続けた後、首を吊って自殺した。そのいじめのひとつとして行われた葬式ごっこの「色紙」には、教員数名が寄せ書きをしていた。 C君の自殺直後、富士見中の校長と教頭が、C君の自宅にあがりこんで、葬式ごっこに使われた証拠の色紙を物色するが、見つけることができなかった。 C君の自殺後、加害生徒の一人Dは、Z教諭(葬式ごっこの「色紙」にサインをしたひとり)が見ている前で、同級生F君を「お前はC二世だ。Cのように自殺しろ」と約40回殴り続けた。それをZ教諭は無視した。怒ったF君がDに反撃したところ、Z教諭は、「やめなさい」と注意した。 この件でDが暴行容疑で警察に逮捕されると、Z教諭と校長は、「(Dが)殴ったのは一回」「つついた程度」「『C二世』とは言わなかった」と、虚偽の発表をした。後に事実関係の違いを指摘された校長は、「教育の論理と司法の論理がありますから」と言った。 マス・メディアの取材でも、裁判の証言でも、教員たちは全員、「いじめはなかった」と主張した。C君からいじめの相談を受けてケアを担当していた養護教諭も、裁判では手のひらを返したように「いじめはなかった」と証言した。 事件の後、地元では、C君の妹が「生ゴミがいなくなって、よかった」と言ったとか、「あの一家は取材料でマンションを買うらしい」とか、両親が裁判を起こしたのは「お金が目当てだろう」といった噂が流れた。C君の両親の家には嫌がらせの電話がきた。 富士見中PTAと地域住民のあいだでは、教員にとらせる責任を軽くしてほしいという署名が集まった。 この事件を取材したノンフィクション作家の門野晴子は、著書『少年は死んだ』で次のように述べている。 「『先生、おかわいそう』の署名はだいたいどこの学校でも特定の親に学校が頼んで出させるものだ。『あの家がおかしかったので学校が騒がれて迷惑ね』と言いながら署名を集め、事件の当事者を孤立させていくのがいわば学校の常套手段である。たとえそれに不本意な人であっても、学校関係の署名は踏み絵のごとき威力をもつから、拒否するには村八分とわが子の差別を覚悟しなければできない」 朝日新聞社会部『葬式ごっこ』には、次のようなある母親の言葉が記されている。 「保護者会での発言が、出席していた親からその子、さらに生徒たちに伝わって、うちの子が『お前の親、カッコイイこといったんだってな』と白い目で見られた。子どもがいじめられるのではないか、と次から、何もいえなくなった」 (豊田充『「葬式ごっこ」──八年後の証言』風雅書房、朝日新聞社会部『葬式ごっこ』東京出版、門野晴子『少年は死んだ』毎日新聞社、「朝日新聞」『サンデー毎日』など) 加害生徒たち(そして教員たち)は、自分たちが「学校的」な空間のなかで生きていると感じている限り、自分たちなりの「学校的」な群れの生き方を堂々と貫く。彼らが、そのようなふるまいをやめるのは、市民社会の論理に貫かれ、もはや「学校的」な生き方が通用しないと実感したときである。