実際に日本の学校で起きた「葬式ごっこ」の壮絶実態…いまだ変わらない「いじめの構造」
「濃密」に付和雷同して生きている
このようなことを、不勉強な識者たちは知らない。彼らは、学校の生徒たちが人の命を虫けらのように扱うのに驚き、「無秩序」「規範意識の衰退」「人間関係の希薄化」と脊髄反射的に口走ってしまう。また識者らは、生徒たちが悪ノリしてはしゃぐさまや、付和雷同するみさかいのなさに、「幼児性」を感じてしまう。そして、「最近の青少年は、幼児化している」などと口にしてしまう。 だが、次の瞬間、その同じ識者たちは、生徒たちの小社会に、金王朝の北朝鮮や戦争中の大日本帝国以上に、生活の細部にまで浸透し、人の魂を深いところから奴隷化する、陰惨な「秩序」を感じる。そこには、自殺した生徒の親に真実を伝える行為を、けっして許さない仲間内の「規範」がある。生徒たちは「濃密」に付和雷同して生きている。だから、互いのちょっとした気分の変化がこわい。また、生徒たちが人を脅かし、痛めつけ、自分たちがやったことを隠蔽する戦略的なふるまいや、いつ何どき足をすくわれるかもしれない過酷な群れを泳ぐ計算高さは、通常の大人以上に「大人」である。 現行の学校制度のもとでは、市民社会の秩序が衰退し、独特の「学校的な」秩序が蔓延している。それは世の識者らが言うように、無秩序なのでも秩序過重なのでもなく、人間関係が希薄なのでも濃密なのでもなく、人間が「幼児化」したわけでも「大人びた」わけでもない。ただ、「学校的」な秩序が蔓延し、そのなかで生徒も教員も「学校的」な現実感覚を生きているのである。人々が北朝鮮で北朝鮮らしく、大日本帝国で大日本帝国らしく生きるように、学校で生徒も教員も「学校らしく」生きているだけのことだ。この人道に反する「学校らしさ」が、問題なのである。 いじめの事例は、人間を変えてしまう有害環境としての「学校らしい」学校と、そのなかで蔓延する「学校的」な秩序をくっきりと描き出す。
内藤 朝雄(明治大学准教授)