大阪桐蔭“黄金世代”で春夏連覇のライトが商社マンに異例の転身…「TOEICが730点ないと出張に行けなくて…」24歳“青地スマイル”の意外な「その後」
あの大阪桐蔭“黄金世代”で2年秋からレギュラーに
プロ注目打者がひしめくチームの中で、青地はどちらかと言うといぶし銀のような存在だった。 「(大阪桐蔭に)入学した時から周りはとにかくすごくて。でも、自分はただがむしゃらに練習しているだけでした。1年生の時は必死にやっていても体重は減るし、試合で結果は出ないし。それでも練習試合では西谷(浩一)先生(監督)には試合で使ってもらって。自分のそんな姿を見てくださっていて、それはすごく感謝しています」 2年の秋に右翼手のレギュラーとなった。 隣のセンターを守るのは藤原だ。身体能力が当時からチームで傑出し、すでにスーパープレーを連発していた藤原の存在は、青地にとって刺激的だった。 「藤原はもう、自分が何をやってもかなわない存在でした。圧倒的に能力が違っていたし、もともとすごいポテンシャルを持っていたので、プロにはこういうヤツが行くんやろうなって。あの頃はずっとそんなことを考えていました」 ただ、レギュラーになったばかりの2年秋の公式戦では、並み居る好打者の中で青地は.457の打率を残し、チームで“首位打者”となっている。ちなみに藤原は.438、根尾は.357だ。 2年秋は主に5番や6番を打つことが多かったが、派手さはなくプロ注目とは言われなくても、チームを支える貴重な存在となっていた。3年夏には「2番・右翼」でスタメン出場し、夏の甲子園では6試合で25打数10安打。実に4割という打率を残し、全国制覇に貢献した。
高校卒業後は関西の名門・同志社大へ
大阪桐蔭卒業後は同志社大へ進んだ。同級生がどんどんプロ入りする中「自分はとりあえず長く野球を続けることしか考えていなかったです」と地元の名門の門を叩いた。もちろん同志社大では高校時代の功績もあり、周囲からの期待は高かった。 だが、その期待に応えたいが故に、青地の気合いが“空回り”してしまう。 「今までになかった自分を見せるために飛距離を伸ばそうとして、身体を大きくするトレーニングをかなりやったんです。そうしたら左ひざを痛めました。その後、手術もしたんです。当然、下級生の頃はリーグ戦にはほとんど出られませんでした。今思うと、あの頃はどこか自分の力を見誤ってしまったところがあったと思います」 下級生時の自身の姿勢を猛省し、3年秋のリーグ戦前には伸びた髪の毛を丸めて坊主頭となった青地の姿があった。ゼロからのスタートを誓い、高校時代のようながむしゃらさを前面に出した。するとリーグ戦では25打数13安打で.520の打率を残し、リーグで首位打者のタイトルを獲得している。 「少しでも長く野球を続けられたら」と大学野球を駆け抜けた。4年生になると主将も務め、チームの中心にも立ってきたが、学年が上がるにつれ今後の自分について真剣に考えるようになった。 それは、野球選手としての現役生活にピリオドを打つ、という選択肢も含めてだった。 <次回へつづく>
(「甲子園の風」沢井史 = 文)
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