《ブラジル》記者コラム= 第1回芸能祭から司会務める藤瀬さん 豪華なフィナーレに込められた想い
かつて夜中2時まで演目が続いたことも
藤瀬さんにかつて3日間もあった芸能祭の時代のエピソードを聞くと、「出演するのを楽しみに練習を重ねている人がブラジル全土にたくさんいて、特に最終日は演目が詰め込まれ、夜中の2時までやり続けたことがありました。私は途中で疲れちゃって『もう帰る』って言ったら、カーザ水本の水下毅(つよし、元リベルダーデ商工会長)さんから『きちんと最後まで務めなさい』と怒られました」と笑う。深夜2時に閉幕して、それから舞台撤収をすると、文協を後にするころには夜が明けている、そんな時代でした」と腰を抜かすようなエピソードを語る。 今のように気軽に日本のテレビ番組が見られる時代ではなく、大好きな日本の芸能を見られる年に一度の機会だったから、出演する側だけでなく、見る側にも熱気がこもっていて最後まで見る人が多かった。娯楽と言えば、自分たちがやるコロニア芸能が最高のものだった。だから同胞社会においては芸能活動には熱が入っていた。
「私は踊りはやらないけど、芳之丞師匠には、舞台の上での手の所作、マイクの持ち方など厳しく指導されました。私は当時何も知らなかったので、本当に怖かったです。日本舞踊のお師匠さんたちは、とにかく本番前のリハーサルまでは徹底的に生徒に厳しく当たるのですが、当日失敗してもけっして怒りませんでした。なにか粗相があっても本番の後では『良かったよ。お疲れさん』と優しく声をかけるんです」とのこと。 藤瀬さんは「藤間流の最後のフィナーレ見てくれた? あれは何カ月も前から鍛錬してきたものなの。毎週練習を見に行っていたから良く知っているわ。皆さん本当にがんばったの。藤間さんは厳しいから、これだけの舞台をやってくれたの。こんなに立派なフィナーレにしてくれるなんて、思わなかった。きっと天国で芳之丞も喜んでいるわ」と少し視線を宙に浮かせた。 「芳之丞が亡くなってこの8月で10年になるんです。今回の芸能祭はその追悼の気持ちでやりました」と振り返りつつ、「なんとか60回まではやりたいわ」と表情を引き締めた。