国家という怪物相手に違憲訴訟に素手で挑む(下) 婚外子差別の根絶求める富澤由子の闘い
富澤由子、73歳。二つの違憲・国家賠償請求裁判を、弁護士を立てない本人訴訟で闘っている。事実婚で子どもの出生届を出すときに味わった根深い「婚外子」差別、そして相続裁判で生来の姓を使えなかった「私の苦痛」――自らの結婚、出産、相続での体験をもとに、国と司法に変革を迫る。人生の後半に想像を絶する労力と時間をかけ、本人訴訟に同時並行で挑んだ。この闘い方を、富澤はなぜ選んだのか。 2013年、婚外子の相続差別は違憲との最高裁大法廷判決が出て、民法が改正された。富澤由子たちは、これで出生届の続き柄欄も廃止されると喜んだ。戸籍で嫡出か否かの選別をするのは相続で差をつけてきたためで、その理由が無くなったからだ。ところが違憲判決が出た直後、別の裁判で最高裁小法廷は嫡出の記載を定めている戸籍法の規定は合憲という判決を出した。「この欄が必要不可欠とはいえない」としつつも「事務処理の便宜に資する」としていた。富澤らの落胆は大きかった。
このとき法務省は、出生届の続き柄欄を廃止する戸籍法改正案を準備していた。しかし、自民党の一部から強硬な反対があって合意が得られず、国会提出は見送られた。最高裁判決の影響もあった。 判決では戸籍事務処理のためとされたが、現場からは逆の声があがる。全国の戸籍・住民票事務担当者でつくる協議会は、「婚外子差別を誘発しかねない要因を除去し、戸籍事務上不要な事項を撤廃して事務を簡素化するためにも、続柄欄を廃止することは極めて合理的」と、欄の廃止を求める要望を法務省に出している。 国際機関からの批判も相次いだ。国連の自由権規約委員会や子どもの権利委員会、女性差別撤廃委員会から日本政府への差別的規定廃止を求める勧告は十数回に及ぶ。それでも国は対処してこなかったのだ。
パートナーのケアのため
事実婚を貫いてきた富澤と藤田だが、17年に婚姻届を出した。ともに高齢になり、病気がちの藤田成吉の治療にかかわるためには法律上の夫婦である必要が出てきたためだ。夫婦の姓は、藤田にした。通称使用の範囲は広がりつつあり、同年には裁判官らが旧姓で判決文をはじめ裁判文書を書くことができるようになっていた。戸籍名は変わっても、共同代表を務める「女性参政権を活かす会」などの活動は富澤姓でする。これは自分で姓を選ぶ権利を広げる契機なのだと富澤は思おうとした。 しかし、二重の姓で生きることは現実には簡単ではなかった。銀行や病院で「藤田さん」と呼ばれるたび、「いえ、違います」と思い、違和感が広がった。自分の意思に反した氏名を押し付けられることは人格を傷つけられることであり、身体への暴力と同じだと実感した。選択的夫婦別姓の実現を求める第1次集団訴訟の原告団長だった塚本協子と知り合ったのはこの数年前。富山市に住む塚本は上京の際に婚外子差別反対の集会にも参加し、一緒にデモをした。 15年、最高裁で民法の夫婦同姓規定は合憲という判決が出たとき、80歳の塚本は「私は塚本協子で生き、逝きたい」と無念の涙を流した。その後も別姓裁判を支援し続けたが、19年に急逝。富澤にとって大きなショックだった。塚本の意志を継ぐ者たちがいることを世に示さなければ。翌月富山で行なわれたマラソン大会に「別姓実現」と書いた鉢巻きをして参加した。フルマラソンは初体験で、22キロ地点で時間制限となってリタイア。塚本を支えてきた「選択的夫婦別姓を実現する会・富山」のメンバーが温かく迎えてくれた。「思い立ったら突っ走るのは『行動する女たちの会』っぽいかもしれない」と笑う。 24年3月には夫婦別姓を求める第3次集団訴訟が提起され、世論調査では「別姓でもよい」という人が6割を超えるようになった。ただ、選択的夫婦別姓が実現しても、それを享受できるのは法律婚をした人だけ。婚姻届を出せない・出さない人に対する婚外子差別は残り続ける。 生まれながらに人を選別し差別する「嫡出」規定を撤廃させたい、そのためには出生届の嫡出欄を廃止させなければならない。これまで署名活動も請願も国会議員への働きかけも、やれることは何でもやってきた。なのに、まだ変わらない。人生を賭けた闘いとして22年6月、違憲・国賠訴訟を起こしたのだった。一審は次回で結審し、夏ごろに判決が出る。