「昭和を冷たく笑う人」たちが「日本の分断」を招く理由 「共通の記憶」なき私たちに未来は描けるのか?
戦争の記憶、戦後の苦闘を礼賛したいのではない。 貧しさ、悲しみ、不公平への怒りといった「共通の記憶」を持てない私たちは、この社会を共に生きる仲間たちへの優しさを失いつつある。まるで、戦争という悲劇が、無関心という悲劇に置き換えられるかのようだ。私たちは、この現実と、どう向きあえばよいのか(連載第4回『娘が流すSnow Manに私が「日本の未来」感じた訳』参照)。 ■人びとは無意識に線を引く 昭和を生きた人たちは「共通の記憶」を持ち、成長と平等が両立する国を作ってきた。私にいろんな話を聞かせてくれたほろ酔いのお客さんは、心に傷を負いながらも、誇りと優しさにあふれた人たちだった。
だが、結局、彼らが残したのは、停滞が続く経済であり、みなが生活防衛に追われるなかで、弱い立場に置かれた人たちを放置する「分断社会」だった。それが、「共通の困難」に立ち向かう意志、<共在感>をなくしてしまった日本社会の現在形である。 人はだれかと共にありたいと願う。問題なのは、どのように共にあるのか、だ。 人びとは、無意識に線を引き、「あちらがわ」と「こちらがわ」を切りわける。「昭和かよ!」とにこやかに語る。だが、この一言で、<過去といま>が切断され、<他者と私たち>の裂け目が生まれる。そして、「こちらがわ」の人びとは、ささやかな一体感に酔いしれる。
私は、第1次世界大戦の敗北の歴史を切り離し、アーリア人と非アーリア人とを区別しながら後者を断罪したドイツの過去を思いだす。かの時代の残酷さや暴力性はない。だが、私たちが直面しているのは、「いい人ぶったファシズム」なのではないか。 「昭和かよ!」の向こうにあるのは、新しい社会への意志ではない。自分自身の価値に基づいた定義でもない。古い時代を否定することで、衰退したいまを見えなくする。それは<現状肯定>であると同時に、恵まれた地位にある上の世代への<静かな抵抗>である。