「昭和を冷たく笑う人」たちが「日本の分断」を招く理由 「共通の記憶」なき私たちに未来は描けるのか?
私は母に心配をかけたくなくて、ジンマシンのことをいえずにいた。だが、ストレスから、段々、チック症状が出るようになった。とうとう耐えきれなくなり、泣きながら電話をしたのをきっかけに、母は私を店に連れていくようになった。 お客さんの多くは、歳のころ50から60の男性だった。店にいる小学生がおもしろかったのか、わざわざ1曲100円のお金をはらって、私に歌を聞かせてくれる人たちがいた。 彼らは戦争を知る世代だった。戦前の曲や軍歌を聞かせてくれる人、占領期の流行曲を教えてくれた人もいた。みな酔っぱらって、ときに涙しながら、ときに誇らしげに、歌を、物語を、私に聞かせてくれた。私は彼らの古くさい歌が大好きで、いまでもたまに口ずさむ。
■傷痍軍人のひどい演奏に母と叔母が涙を浮かべたワケ もう1つ、忘れられない音楽の記憶がある。それは、駅の前、デパートの前で、戦争で大ケガをした「傷痍(しょうい)軍人」が演奏していたハーモニカとアコーディオンだ。 真っ白な衣装を身にまとった、足や手のない演奏者のかたわらには、大きな鍋が置いてあった。行き交う人びとがそこにお金を落とす。私の母と叔母も、額こそ少なかったが、彼らを目にするたびに寄付をしていた。
演奏技術はさまざまだった。あるとき、ハーモニカを口に当て、息を吸ったり吐いたりしながら、2つの音しかない「曲」を奏でる人がいた。子どもの耳で聞いてもわかる、ひどい演奏だった。 ところが、母と叔母は目に涙を浮かべながら、一言、二言、何かを彼に伝えてお金を鍋に入れた。私は「下手やんね!」と不平を口にした。二人は、私を諭すようにいった。 「あれがあの人のお仕事たい。体が不自由なとにね。立派な人やね」 いずれも大切な私の記憶なのだが、ふと、私の脳裏を、ある言葉がかすめる。
「昭和かよ!」 そうなのだ。私の記憶は昭和らしさに満ちているのだ。 思えば、ここ数年、昭和という言葉は、すっかり古くさいものの代名詞になった。若者だけではない。私たち世代のなかでも、否定的なニュアンスで昭和を用いる人が増えた。 母は昭和1桁の生まれ。少年時代の境遇もあり、私は友人以上に「昭和らしさ」を身につけている。平成生まれの人たちにしてみれば、私の話など、親父の昔語りなのかもしれない。 とはいえ、私にとっての昭和は思い出の宝庫だ。古くさいから、と簡単に切り捨てるわけにもいかないから、「昭和かよ!」という表現を聞くと、なんとも複雑な気持ちになる。