「とんでもないクソバンド」がもたらした若き日の契機…ミュージシャン・佐橋佳幸がJ-POPに欠かせない存在となるまで
挫折感はあったが「嫌じゃなかった」仕事
バンドが志半ばで解散し、スタジオミュージシャンとしての仕事がどんどん増えていく。スタジオミュージシャンは欠かさざるべき大事な仕事ではあるが、デビューによって表舞台で日の目を見た経験からすれば、地味に映りかねない仕事でもある。 「確かに最初はすごく挫折感がありました。できることは音楽しかないし、やれることがあればいいんだと思っていましたが、そもそも小学生から『全米トップ40』を聞くような子どもで、ロックだけでなく、ポップスや歌ものは大好き。落ち着いて考えてみたら、歌の伴奏でお金をもらえる仕事って嫌じゃないな、と思えて」 スタジオミュージシャンとして、現場でさまざまなアイデアも出してきた。「こういう奏法はどうですかね?」と躊躇せず試しに披露したものが、「お、佐橋君、それいいじゃん」と先輩ミュージシャンらの賛同を得て採用されることも多かった。 「あの当時は、音楽業界も少しずつ変わってきていた時期だったのかもしれません。もともとバンドでの僕は、アコースティックもエレキもどっちもやっていた。ところがスタジオミュージシャンを始めた頃、とある有名ミュージシャンの方に『君か。最近、アコギもエレキも両方やるといって職種を荒らしてんのは』って言われたんですよ。80年代のスタジオ界では、まだアコギとエレキは別の職種だったんですね。そんなこと知らないし、僕はUGUISS時代から両方弾いてたので驚きました」 そんな職種分けがあると聞かされるほど、上下関係にも厳しく、きっちりとしていた業界が少しずつ変わってきていたのだ。いい意味での緩さも出てきて、さまざまな提案をする佐橋の考えを受け入れてくれるような時代になっていたことがありがたかったという。 *** 第2回【「TRUE LOVE」のイントロは藤井フミヤの弾き間違いだった…ミュージシャン・佐橋佳幸が明かす“ミリオンヒットが生まれる現場”】では、大ヒット曲にまつわるさまざまなエピソードや、自身のバンドUGUISSの復活について語る。 デイリー新潮編集部
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