シド・ヴィシャスの死後、母が見つけた直筆のメモ「一緒に死ぬ約束をしてたんだ」…パンクのアイコン的存在として君臨した男の劇的な最期
1979年2月2日にセックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスはこの世を去った。過激なパフォーマンスや破天荒な生きざまに多くの若者が憧れ、パンク・ムーブメントの伝説的存在となった彼の最期を紹介する。 【画像】シド・ヴィシャスの恋人ナンシーが殺害されたホテル
「今時、アホなラブソングなんて歌ってられるか」に全英の若者が夢中に
1970年代半ば。ロックの商業化や有名バンドのアメリカ逃れ、深刻化する経済不況や失業問題、搾取が蔓延る社会体制への不満などが絡み合いながら、ニューヨークで生まれたパンク・ロックは大西洋を隔てたロンドンで爆発した。 ファッション・デザイナーでブティック経営者のマルコム・マクラーレンという30歳過ぎの野心家は、自分の店「SEX」にたむろする少年たちにバンドを結成させる。それがセックス・ピストルズだった。マルコムがシナリオを描き、4人のメンバーが演じるプロジェクトのようなもの。 インパクトのあるファッションや髪型、ロックの衝動を蘇らせたラフな演奏と反体制溢れる歌詞、レコード会社との違約金目当てのトラブル、各地のライヴ会場での締め出し、TV番組での過激な発言やパフォーマンスは、フラストレーションが溜まった全英の若者たちから熱い支持を得る。 「今時、アホなラブソングなんて歌ってられるか」と言い放ったピストルズの登場によって、イギリス中に次々とパンク・バンドが生まれ、無数のパンクスたちがストリートを歩くようになった。1976~77年はパンクがすべてになったのだ。 さらに1977年6月、全英チャートでピストルズの『God Save the Queen』が2位に到達。10月には唯一のアルバム『Never Mind the Bollocks』をリリースして遂にナンバー1に。マルコム劇場は頂点を迎える。 しかし翌年1月、アメリカでのツアー中にジョニー・ロットンが突如として脱退。ピストルズはあっけなく失速していく。 その後は残されたメンバー3名(スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、シド・ヴィシャス)で活動は継続されるが、パンク・ロックの牽引的存在としての役割は事実上終えていた。