「思っている以上にウクライナは日本を評価していた」 前駐ウクライナ大使が明かす開戦時のリアルとゼレンスキーの卓越した能力
「これ以上遅かったらマズかった」
ポーランドで事務所を開いたのは、南東部にあるジェシュフという国境に近い街。当時は主要7カ国(G7)の大使館や国連機関、ウクライナの関係者も近くにたくさんいましたから、大使館業務に支障が出るということはあまりなかったように思います。 ただ、4月に入ってロシア軍がキーウから完全に撤退すると一時退避していた外交団は続々とキーウに戻っていった。5月の終わりごろにはG7の中でキーウに戻っていないのは日本だけという状況でした。G7の大使が集まって会合をしていても私だけがオンライン参加。回線が途中で切れることもあり、肩身の狭い思いをすることは一度や二度ではありませんでした。 私たちがキーウに戻ったのは一時退避から約7カ月が経過した22年10月になってから。戻るのが早ければ早いほどよいというわけではありませんが、「これ以上遅かったらマズかった」というギリギリのタイミングだったのは事実です。 「地理的な距離は心理的な距離を生む」と言われる通り、現地にいわれわれと日本政府との間で危険度の評価に差が出るのは仕方のないことです。私は政府の判断を責めるつもりはありません。
「“尻尾を巻いて逃げて…”ではなかった」
ただ、23年の1月から日本はG7の議長国を務めることになっていました。ウクライナは14年に起きたロシアのクリミア併合以来、国際的な支援を受けるために腐敗をなくす改革を進めていましたが、議長国の大使にはその改革をサポートする役割もあるのです。「汚職対策」の先頭に立つべき大使が「ポーランドに避難していまして……」では話になりませんから、私個人の思いとしてはキーウへ戻るのは「待ったなし」の状況でした。 現実には、いくつかの国から「帰ってくるのが遅い」と手厳しいことも言われました。ただ一方で、日本大使館は戦争勃発後、G7各国の中で最後までキーウに残って活動していたという事実もあるんです。これは小さな事実ではありますが「侵攻が始まるや、尻尾を巻いて逃げて……」というわけでは決してなかった。だから偉いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、ウクライナの中にはそれを評価してくださる方もいたということは、日本の名誉のために申し上げておきたいと思います。 〈G7の中で、文化的にも地理的にもウクライナと最も距離がある日本。岸田文雄前首相が繰り返した「今日のウクライナは明日の東アジア」というフレーズには、両国の間に横たわる「距離」を克服したいという思惑もあったのかもしれない。 しかし、一方でいくら両国の距離が縮まろうと、平和憲法に縛られた日本には「カネしか出せない」との批判もあるところ。日本のこのような「特異体質」をウクライナ側はどう考えていたのだろうか。〉