「死んだら作品を焼却してほしい…」ひとりの芸術家を殺した戦争
秀雄さんは学校の子どもたちに向けて戦地からハガキを出していた。上田さんは、先生からのハガキが楽しみで届く日を心待ちにしていたという。自分からも返信の手紙を書いた。戦地にいても、子どもたちを笑顔にして喜ばせた先生は変わらなかった。ハガキの内容は今でも忘れられない。 「ここは常夏の国で暑いところです。鳥が電線にとまっていると焼き鳥になって落ちてくる。だからこっちのスズメはいつも足踏みをしています。そんなユーモアを交えて面白く書かれているんですよ」 上田さん卒業の年には、担任として受け持っていた子どもたちが無事に成長したか確認する手紙も学校の教員宛に届いていた。 「若い頃から詩を書いて、絵を描いて、しっかり生きていた先生ですけれども、その夢もつぶされて。本当に残念だったろうな。私たちも本当に何か戦争の怖さと言いますかね、恐ろしさと言いますか、それをもう本当に感じましたね」
両親に送り続けた絵画と部隊新聞
秀雄さんが所属していたのは陸軍歩兵第13連隊。中国転戦後、ラバウル、ソロモンへ進出。その後、太平洋戦争の激戦地「墓島」と呼ばれるブーゲンビル島で最期を迎えた。秀雄さんは1944年11月にマラリアにかかり、翌月に戦死したという。30歳という若さだった。戦地では現地の暮らしぶりや風景、兵士をスケッチし、菊池に住む両親へ送り続けた。 おい・笠昭二さん 「絵や手紙には本当に悲惨なことは、ひとつも触れていなかったですね。だから戦争の様子を描いた絵は1枚もありません。芸術家としての魂みたいなものをこのスケッチブックに込めたと思いますね。だからこそ暇をみて描いたものを親元に送り続ける気力があったんだろうと思うんですね。」
歩兵第13連隊の通称号・明9018部隊の“18”という数字から“18報”と呼ばれる部隊新聞も笠さんの手元に残されている。“18報”は戦争中にあっても、文芸にいそしみ互いの教養に努めるという意向で発行されたのではないかという。この部隊新聞の編集に秀雄さんは携わっていた。端午の節句、5月5日の18報の挿絵は秀雄さんが描いたもの。鯉のぼりを背景に毛むくじゃらで大きな男を突き刺す日本兵の姿が描かれている。兵士が身につけているうちわには“藤崎宮”の文字。戦地でも故郷への思いをにじませていた。