「国の指示待ちでは間に合いません」防災家が語る“多数派に流されない危機管理法”
日本で唯一の「防災家」としてあらゆるフィールドで活躍する野村功次郎さん。 ▶︎すべての写真を見る
前回は消防士時代の印象的なストーリーをお届けしたが、今回は野村さんの掲げる「フィードフォワード」を含めた、防災意識や災害への心構えについて掘り下げたい。
チームワークではなく、個人で救える防災活動へ
23年間、消防士・レスキュー隊として活躍してきた野村さん。現在は、その経験を活かして防災家として活動しているが、そこにいたるまでにはどんな経緯があったのだろう。 「消防士になって9年目に前回お話しした救出体験があって、より直接的な災害救助をしたいという気持ちが芽生えてきました。チームワークによって救出できることも多いけれど、マニュアルや決まりごとのある組織の中にいては、限界を感じることもあって」。 そう考えを巡らせながらも、レスキュー隊時代にはすでに“今の野村流”ともいえる能動的かつ革新的なアイデアを形にしていた。
「まずはハザードマップをはじめ、心肺蘇生法の手順や心臓マッサージの位置がひと目でわかる大判のハンカチを作りました。携帯電話やネット環境が普及していなかった当時、手軽に持ち歩ける防災グッズが必要だと思ったんです。 今では自衛隊や警察、海保などに普及しているレスキューベストも、僕が1996年頃に開発したもの。2005年頃には『学校防災』といって、学校内の放送と地震速報を連動させるシステム作りをしたりもしましたね」。
レスキュー隊の中でも野村さんの秀でたアイデアは重宝され、自身もやりがいを感じていたという。しかし、防災家になろうと決意した理由には、目指してきた先輩の喪失が大きかった。 「消防士となって23年目に、10歳上の現役の先輩が病気で亡くなったんです。僕が入庁したときの直属の先輩で、ものすごく厳しかったんですけど、仕事に対してはとても誠実で、その方に防災のノウハウやモノの見方を教わりました」。
「先輩が亡くなる前に、『僕のできんことを野村はできると思うし、お前にすべて託した』と言われましてね。先輩は防災で疑問を持ったことを直接、大学の教授に聞きに行くほど熱意のある方で。仕事は好きだったけど、その先輩が亡くなったことで、もう追いかける背中がなくなってしまったんです」。 そうしてレスキュー隊を引退し、上京して個人で防災活動をはじめた。最初は学校へ直談判する形で講演の場を増やしていった。