「自分は運がいい」と思えば現実に? セルフイメージを書き換える3つの方法
SNSでの友人の幸せそうな投稿に心がざわつく。他人との比較で自信をなくしてしまった経験はありませんか? しかし、あなたの価値は周りの評価ではなく、あなたが決めるものです。他人と比べるのをやめ、自分だけの幸せを見つけるためのヒントを、書籍『やりたいことができる私になる自信貯金』よりお届けします。 【図】不安の度合いを3つに分類 ※本稿は、有川真由美著『やりたいことができる私になる自信貯金』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
世間の評価と、あなたの価値は違っていていい
「SNSを見ると、友だちが活躍していたり、幸せそうだったりして、自信がなくなる」 「成績の悪かった友人が自分よりも収入が多いことがわかり、妬ましく思えてきた」 「就活の面接に落ちて、すっかり自信をなくした。友人も落ちたと聞いて少し安心」 そんなふうに人と比べることで、自信をなくす人は多いもの。他人に嫉妬したり、人の幸せを喜べなかったりする自分のことが嫌になってしまう人もいるかもしれません。しかし、これは習慣の影響が大きいのです。 私たちは幼いころから、兄弟や近所の友だちと比べられたり、学校の成績やかけっこで競わされたり、容姿や家庭の状況によって扱いが違ったり、またはそんな人たちを見てきて「人より劣っていると、大事にされないのだ」という恐れを刷り込まれてきました。 とくにひとりでは生きられない幼少期に、まわりから認めてもらえないことは死活問題。大人たちの言葉に深く傷ついたことも、逆に自信をもったこともあるはずです。 大人になっても、比較から逃れることはできません。就職活動や営業成績、昇進、婚活など、他人から比較、評価される機会はつねにあります。自分自身でも、働く会社のステータスや収入、SNSのフォロワー数、恋人の有無、容姿やスタイルなど、つい「自分のほうが上、下」と比較してしまうことはあるでしょう。 「人の価値はみんな平等」「比較で人を判断してはいけない」などと、きれいごとを言うつもりはありません。比較や評価はつねにあるものとして、そこに惑わされず、「それがなにか?」「自分の価値は自分で決めますから」と開き直ることが重要なのです。 自信のある人というのは、「他人のことはいい。自分の道を歩くのだ」という覚悟をもっています。他人がどうであろうとあまり関心がなく、自分のことに専念しています。 だれだって「評価されたい」という気持ちはあるもの。ですが、「世間の評価=自分の価値」と思ったら、大間違い。自分の理想を追い求めること自体に、深い満足と、自尊感情があるのです。多くの大人たちがそうであるように、人との競争、張り合うことに熱心になっていたら、自分の人生を台無しにしてしまいます。 資本主義の世の中は、人を馬車馬のように働かせたり、消費行動を促したりするために、競争を煽る傾向がありますから、それに振り回されてはいけないのです。他人との比較や競争ほど、幸福度も自信も下げるものはありません。 私も20代、30代は「あの人はすごいなぁ。それに比べて私は......」と落ち込んでばかりいました。「あの人に比べて、私はまだマシ」と安心する卑しい気持ちもありました。 そんなふうに一喜一憂したり、人に認めてもらうために人生の選択をしようとする自分がほとほと嫌になって、一時期、まわりの声をシャットアウトして、「自分はどうしたいのか」「どんなふうに生きたいのか」とひとりで考え続けていました。 そして、30代後半のある日、「海外の子どもたちを取材して、リアルに伝えたい」という、隠れて見えなくなっていた思いが、むくむくとわき上がってきたのです。 友人に話すと、「いいね!」と言ったのは一人だけ。あとは「そんな夢を追いかける年齢じゃないでしょ」「普通に結婚して落ち着いたら?」という否定的な反応でした。でも、他人が自分の人生に責任をとってくれるわけではありません。自分の幸せをいちばん真剣に考えていて、自分の人生に責任をとれるのは、自分しかいないのです。 「これからは好きなように生きよう」と、数カ月後には仕事を辞めて、思い描いていた夢を実現。それが大きな自信になって、本を書くことにつながっています。面白いのは、「認められたい」と必死にもがいているときより、「とにかく、自分を信じてみよう」と、自分のことに専念したほうが、結果的に認められたということです。 他人が認めてくれるかは、他人が決めることで、気にしてもしょうがない。人との比較をして自分を上げたり下げたりするのも無意味。「あの人と自分はなにが違うのか」「あの人ががんばっているから私も」と学びや励みになるなら、意味があるでしょうが......。 嫉妬する相手を「すごいね」と素直に認めると、とらわれることはないはずです。人生に勝つべき競争などないとわかれば、ご機嫌に自分の道を歩いていけるのです。