「これは地獄図だ」強制収容された日本人難民の2人に1人が命を落とした“死滅の村” #戦争の記憶
「飢餓の村、死滅の村なり」
年を越した1946年1月になると、ソ連軍や人民委員会に、収容者約600人が死亡したという情報がもたらされた。同月半ば、ソ連軍司令部と咸鏡南道人民委員会保安部、同委員会検察部、咸興日本人委員会は実態を把握するために合同調査団を構成し、富坪に急派する。 調査団に参加した李相北(リサンブク)がまとめた「富坪移管日本人状態調査報告及意見書」によると、死亡した収容者の数は1946年1月10日時点で、累計575人、脱出者は306人。残留者2401人のうち、「活動可能男女」(ある程度動くことができる男女)の総数はわずか500人。さらに栄養失調と感染症患者は合わせて708人とある。「富坪報告書」の一部を抜粋する。 〈移動日本人の一般状態 移動直前に道市委員会幹部と保安部責任者が定平保安署に出張し、日本人避難民三千余名を富坪に移動することを提議し、其の収容に対する準備を協議したる結果、主食物及び副食物はもちろん、寝具と宿舎施設の完備まで責任を持つと言明し、承諾したるにも拘らず、道市人民委員会は移動以来、米穀三十六石と雑穀二十四石の配給をなしたるのみにて、住居施設、副食物、衣類、寝具等には何らの援助もなさず、そのために三千余名の生活物資を微かな地方の自力にて援護し来たれるも、道委員会の全幅的支持なき限り、日本人避難民の悲惨なる現状打開の可能性なし。 ソ軍当局は日本人の外出を許可せず、種々交渉したるも実行できず、十日現在も捕虜収容所の如く厳重に監視し、外出も許可されず、その結果、日本人は自由に物資を購入する機会を遮断され、栄養不良と(なり=引用者注)防寒保温は一層不可能となり、かつ促進せり〉 以上の惨状をつぶさに見た李相北は、富坪の避難民収容所について「実に呪われたる存在なり。それは実に煤煙と余りの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり」と述懐している。ガラスがない窓を叺で塞いだ収容施設の中は「白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟」であり、収容所の光景を「死滅の地獄図」と記した。