ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (78) 外山脩
第五章
衝撃の排日法 社会的危機というものは、色々な訪れ方があるものだが、ブラジルに於ける日系社会のそれは、突如か後から気づく程度の微かな前触れしかないまま、襲来したケースが多い。 前章で記した様に、日本の国策により一九二〇年代から三〇年代にかけて、日系社会は興隆期に入り、前途にさらなる明るさを期待できる状況にあった。 しかし(笠戸丸から数えて)移民二十五周年を祝った一九三三年の末、三回目の危機が忍び寄っていた。 同年末、首都リオ・デ・ジャネイロでは、新憲法制定議会が開催されており、その議場から危機は発していた。 新憲法の制定は、 一、予め起草委員会が、草案を作成する。 二、それに対して、議員たちが修正案を提出する。 三、その修正案を、専門委員会=通称二十六人委員会=が取捨選択して、新憲法法案を作成する。 四、この法案を本会議で審議、採決する。 …というスジュールで進められていた。 ところが、法律好きの国民性もあって、起草委員会の草案に対して一、二〇〇件以上、項目にして約三、〇〇〇もの修正案が提出されてしまった。 ために二十六人委員会は、八分科会を設けて作業を行なった。 さて。 右記の起草委員会が作成した草案には、移民に関する条文があり、外国から入国する移民に関する立法権を、共和国議会に与えることが記されていた。(共和国=当時の正式国名はブラジル合衆共和国) これ自体は、特に問題はなかった。ところが、この条文に対して四件の修正案が提出され、それが、いずれも排日色濃厚な内容だった(!)のである。 その修正案は、四人の議員から別々に提出されていた。 内容は、日本移民の入国や集中居住を禁止もしくは極端に制限しようとしていた。集中居住とは、本書で前章までに触れた入植地を指す。 これは全く衝撃的だった。しかし、日系社会の中心機関は殆どサンパウロ(市)にあったため、このことは年が明けても、誰も知らずにいた。 リオには日本大使館があったが、何の反応も示していなかった。 実は、林久次郎大使がアマゾン旅行に出かけていたのである。それも一月初旬から二月半ば過ぎまでという日程であった。 対ブラジル移住の促進は、前章で詳しく記した様に、日本政府の重要な政策であった。 その国策を覆す危機が迫っているのに、のんびりとアマゾン旅行…である。 大使館という所は、担当館員がその国の新聞を克明に読み、政治経済の動向を把握しているものである。 リオ大使館は、制憲議会の動きは当然知っていた筈だ。林大使のアマゾン旅行は、理解しがたい行動であった。 事態を、サンパウロの日伯新聞の三浦鑿とブラジル時報の黒石清作が知ったのは一月中旬になってからである。 リオに居った後藤武夫が自主的に報せたのだ。 後藤は、一章で登場したが、日系進出企業の第一号、藤崎商会の店員であった。 その藤崎は一九三二年、ブラジルでの事業を終了した。 後藤はそれ以前に退社、この国に住み着いていた。同胞のためには労を惜しまない美質の持ち主だった。 後藤の報せに三浦と黒石は驚愕した。が、ともかく記事にして警告を発した。両者は、前章で記した様に犬猿の中であったが、この件では足並を揃えた。 後藤は以後も排日法の成立を阻むべく、走り回った。制憲議会の議員を次々と訪問、排日修正案成立阻止のため説得を重ねた。誰かから頼まれたわけではなく、自分からそうしたのである。 排日修正案を提出した議員の一人はミゲール・コウトという医師で、その内容は、 「アフリカ人及びその系統人の移民は受入れを禁止、アジア人は最近五十年間にブラジルに定着せる当該国人の総数の一〇〇分の五に受入れを制限する」 という主旨から成っていた。(その系統人=在米黒人) 添付された理由書の中には、 「移民中には、領土征服の隠れたる野望を抱きて、渡来する帝国主義的分子あるを警戒すべし」 の一行があった。