生きている時間のすべてがつまらなすぎる…人生最大の敵、「退屈」とどう向き合えばいいのか
「退屈」の正体とは
確かにそうした自分を直視するよりは、「気晴らし」に身を投じた方がずっと楽に生きることができる。しかしそのような「気晴らし」は決して本当の意味での解決ではない、とパスカルは言う。「これ〔気晴らし〕こそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである」。何も確実なものを手にすることなく死に至ることの悲惨さをパスカルはここで強調している。 西田幾多郎の弟子の一人で、京都大学で長く宗教学を講じた西谷啓治に『宗教と非宗教の間』というエッセー集があるが、そのなかで西谷は次のように「退屈」の恐ろしさを問題にしている。「仕事に飽きた場合は仕事が重荷になるだけだが、何もすることがないという退屈……では、自分というものが重荷になる。……その退屈の底から現われる空虚には、人間をゾッとさせ、粛然とさせる恐ろしさがある。厳粛にさせられるのを避けるために、時間を「潰し」、気を「紛らす」工夫をしなければならぬ。パスカルの時代には、 divertissement はまだ有閑階級の特権でもあり難儀な負担でもあった。現代の「先進国」では、それは一般大衆のものである。……時間を潰すのに工夫はいらない。進歩する社会が……洪水のように〔それを〕提供してくれる」。 「気晴らし」が有閑階級の特権であったというのは、その階級のみが「つぶすべき時間」をもっていたということを指している。生きることで精一杯であった一般民衆には、「つぶすべき時間」はなかったのである。そしてそれが「難儀な負担でもあった」というのは、その気晴らしの手段を自ら作り出さねばならなかったからである。 それに対して現代では、ゲームや音楽、映画や演劇など、誰でもすぐに気晴らしの手段を手にすることができる。むしろ、それを避けるのに逆に工夫がいるくらいに、そうした手段が溢れるような時代に私たちは生きている。何もすることがないという「退屈」の底に空いている「空虚」あるいは「深淵」をあえてのぞき込もうとする人は、パスカルの時代よりもいっそう少なくなったと言えるのではないだろうか。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田正勝