宮崎の象微ともいえる「橘橋」 普段何気なく利用している“橋”には大きな歴史があった
人々の暮らしには、絶対欠かせない橋。大淀川に架かる「橘橋」を誕生させるために立ち上がったのは、1人の男性であった。医者として活動をしていた福島邦成が、ふるさとを愛する想いから行動に移したその背景とは。 橘橋の貴重な写真を見る 「宮崎『橋の日』実行委員会」の事務局長・鶴羽浩さんに話を聞いた。 宮崎市は2024年に市制100周年を迎えたが、大淀川にかかる橘橋が誕生したのは、それより前のことだった。
橘橋の歴史
橘橋が誕生したのは144年前。架けたのは行政ではなく1人の男性だった。 鶴羽浩さん: 「橘橋は福島邦成という医者が架けた。自分の私費をもってなんとか町のためにしたいという思いで架けたというのが橘橋の始まりだ」 橋が架かる前、人々は渡し舟で行き来していた。しかし、船は天候に左右され生活に必要な物資が途絶えることも。 「橋を作らなければ」という思いで邦成は行政にお願いしたが、お金もかかるため「なかなか難しい」と言われた。 邦成は自分の力で橋を架けることを決心した。早速、県知事に橋の建設許可のお願いを出したが、建設許可が下りたのは3年後の明治13年3月、邦成はすでに60歳を超えていた。 川幅は350メートルと広く、高度な技術が必要だったため、建設にかかった費用は、現在のお金にして8000万円。建設に携わった人は、延べ2600人にのぼったと言われている。 着工から1カ月あまりの明治13年4月、念願の橋が完成!邦成はこの橋を「橘橋」と名付けた。長さ382メートル、幅4メートルの木の橋だ。 現在、大淀川にかかっている橋は6代目。ふるさとを愛する熱い思いから生まれた橘橋は、これからも宮崎の人々の暮らしを支え続けることだろう。
医者の福島邦成が、なぜ橋に熱い思いを?
鶴羽浩さん: 「邦成は内藤藩の医者として活動していたが若いころから東京や大阪で学び、経済や人の交流においての橋の役割、大切さを知っていた。宮崎に戻ってきた際に橋がない、架けなければいけないと決意をしたのではないか」