「2人の行動が称賛されている…」〈令和流〉現天皇・皇后と〈平成流〉上皇・上皇后の決定的な違い
「安心」より「安全」重視の災害対応
平成と令和の違いは、災害への対応の違いにも表れた。コロナ禍が明けた24年の元日に能登半島地震が起こったが、天皇と皇后が初めて現地に入ったのはそれから3カ月近くが経った3月22日だった。平成の天皇と皇后は、95年の阪神淡路大震災では2週間後に、死者数で能登半島地震を下回る16年の熊本地震でも1カ月あまり後に、それぞれ被災地を訪れている。いずれも余震が収まらないうちの訪問であり、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を速やかに実践したわけだ。 それに比べると、現天皇と現皇后の動きは遅いように見える。だがコロナ禍は皇室に対する国民の眼差しにも影響を及ぼしている。余震が収まらないうちに現地に入るのは危険だとして、ある程度落ち着いてから訪れた二人の行動が称賛されているからだ。コロナ禍が長引くにつれ、精神的な「安心」よりも科学的なデータに基づく「安全」の方を重視する風潮が強まったのである。 皇后の体調が依然として万全でないこともあり、令和の皇室は平成ほど全国各地を回ることに固執していない。それよりも天皇、皇后ともに得意な英語力を使い、海外からの来賓と直接対話する姿が目につく。もっぱら天皇と国民との関係を強めてきた「平成流」に対し、「令和流」は国内に増えつつある外国人との交流を広げるために彼らが多く住む地方を積極的に訪れたり、オンラインを活用したりすることも考えられる。
他方で能登の被災地を視察する際に自衛隊のヘリコプターが使われたことは、平成のときと同様、皇室と自衛隊の距離の「近さ」を印象づけた。戦後、昭和天皇の時代には再軍備を望む天皇自身の意向とは裏腹に自衛隊との距離は相対的に保たれていたが、平成以降の相次ぐ大規模な自然災害が必然的にその距離を縮めたことは否定できない。
明治から戦前までの天皇像は一時的
天皇明仁は平成になってすぐ「日本国憲法を守り」と言い、先の大戦に対する反省をしばしば表明し、皇后とともに太平洋の激戦地を訪れ、とりわけ12年に安倍晋三政権が生まれてからは政権に対峙する姿勢を明確にした。こうした振る舞いをよく思わなかった自民党の保守派にとって、現天皇は平成の天皇のコピーであってはならないはずだ。自民党だけではない。東アジアにおける中国や北朝鮮の脅威を強調する自衛隊の幹部にとっても、平成期に変質してしまった天皇を精神的支柱としてよみがえらせたいというのが本音ではないか。 しかし歴史学者でもある現天皇自身はそう考えていないだろう。会見で理想の天皇として平安から室町にかけての天皇に言及したことがあるように、明治から戦前までの天皇像は一時的にすぎないことをわかっているように見える。 平成の天皇と皇后が訪れた戦地は大戦末期に米国との戦いに敗れた島々ばかりで、日本軍が一方的に侵略や攻撃をした場所には訪れていない。中国やハワイやマレーシアを訪れることはあっても、柳条湖や南京、重慶、真珠湾、コタバルなどを訪れたことはないのである。 現天皇と現皇后がそれらの戦地を訪れれば、平成との違いを見せることができる。「令和流」を確立させるには、国の内外で外国(人)との関係をどう築くかがポイントになるように思われる。 ◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『 文藝春秋オピニオン 2025年の論点100 』に掲載されています。
原 武史/ノンフィクション出版