「電気の恩恵だけ受けている人、地元のつらさ感じて」女川原発が再稼働、半世紀にわたり反対続ける父娘の思い【報道特集】
震度6弱の揺れに見舞われた女川原発にも危機が迫った。 当時の女川原発の敷地高は14.8メートル。地震で1メートルの地盤沈下があり、そこに高さおよそ13メートルもの津波が来襲したが、あと80センチで浸入を防いだ。 1号機の設計当時、津波の予想高は3メートル程度とされていたが、東北電力の社内委員会は過去の津波を調査・検討し敷地を高く設定していたという。 ただ危険がなかったわけではない。 当時、牡鹿半島付近の海は干潮に近い時間帯だった。あの日、満潮時と干潮時の潮位差は90センチ以上あり、仮に満潮の時に同じ津波が来ていれば、敷地に入っていた可能性もあった。 阿部美紀子さん 「この辺だと思いますね」 震災前に美紀子さんの自宅があった場所。女川を襲った津波は、美紀子さんたちが暮らす家も飲み込んだ。 阿部美紀子さん 「がれきだらけで何もなかった。私たちの地区の集会所があったが、その上にも車が乗っていた」 町の外に避難することになった美紀子さんは出発当日の朝、がれきだらけの町に父・宗悦さんとあるものを掲げた。 「福島を教訓に」 流れついた股引に記した。 阿部美紀子さん 「私も口が悪いから、父親に『旗立てるぞ』と言って2人で来た。悔しくて悔しくて。福島がああいう状態になっているのに自分は何もできない。原発に女川でずっと反対してきた、建てさせたくなかった者として、これからどうするのだろうという怒りと自分が何もできない焦燥感」 宗悦さんは震災発生の翌年、86歳で亡くなった。 阿部美紀子さん 「みんなに『宗ちゃんの言ったとおりになったな』と言われた時に『こういう福島にしたくなかった、見たくなかった』と言っていた。何もないんです。がれきだらけで。でも訴えたかった。がれきのど真ん中で、本当に原発反対を叫びたかった」 ■再稼働へ 反対する女性の思い 震災後、全国すべての原発が運転を停止し、政府の原子力政策も一時は抑制的なものとなった。 だが、2022年、政府は原発の再稼働の推進や増設に舵を切る。