「失恋だけが原因ではない」中森明菜、絶頂期の不穏と完全復活までのカウントダウン
1989年大みそか、金屏風会見の真実
'84年の『サザン・ウインド』から'88年の『TATTOO』までオリコンのシングルチャート16作連続で初登場1位を記録。歌姫として、明菜はまばゆいばかりの輝きを放つようになっていた。 しかし光が強くなれば、闇もまた濃くなる。それがこの世のことわりなのか。 東京・よみうりランドEASTで行われた伝説のライブ「AKINA EAST LIVE」のおよそ2か月後の1989年7月11日。明菜は六本木にある近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こす。 「デビュー当時から明菜は、マッチ(近藤)のファンであることを公言していた。 そんな2人が'85年1月に公開された主演映画『愛・旅立ち』で共演。明菜は大人っぽい歌を歌っていたけど、マッチとの恋が初めての恋。だからのめり込んでいった。 ところが'89年2月。最大のライバル、松田聖子とマッチのニューヨーク密会報道を知って、明菜は自殺未遂事件を起こしてしまう。明菜はとにかく純で一途。ショックが大きかったことは間違いないでしょう」(石川氏) その後、2人は別れたという報道もあったが、石川氏は事実に反すると否定する。 「別れたという報道は、当時のジャニーズ事務所がマッチを守るために流したミスリード。自殺未遂事件以降、2人が飼っていた犬が粗相をしてマッチが後始末をしていたなんていう話も聞こえてきた。マッチはその後も献身的に明菜を支えるつもりだったんじゃないかな」(石川氏、以下同) なぜ近藤は、明菜を献身的に支えなければならなかったのか。そこには複雑な事情が絡んでいた。 「将来、2人が住むマンションの費用という名目で、マッチが明菜から7600万円を借りていたなんていう記事も出ていたけど、実際は違う。当時カーレースにのめり込んでいたマッチが、明菜から資金援助してもらったというのが事実なのでは」 どこまでも近藤を信じてついていこうと一途に思いつめる明菜。しかしそんな明菜を奈落の底に突き落とすような事件が起きる。それがその年の大みそかに起きた「金屏風事件」だと石川氏は言う。 「金屏風事件」とは、NHKの『紅白歌合戦』の裏でテレビ朝日が生放送した、新高輪プリンスホテルで行われた明菜の緊急復帰会見のことである。長かった髪を切り、地味なグレーのスーツで現れた明菜は、憔悴しきっていたと石川氏は当時を思い返す。 「『紅白』の裏で行われる緊急会見だから婚約会見か結婚会見かと思って慌てて駆けつけました。そしたら明菜は、記者たちを見回し、迷惑と心配をかけたと謝罪。ファンにも『ごめんなさい』と弱々しい声を振り絞って謝るばかり。 その後、現れたマッチが『明菜ちゃんが復帰するレールを敷くお手伝いが少しでもできた喜びを感じている』なんて言うものだから呆気にとられて言葉も出なかった。 後ろにある金屏風を見て、婚約や結婚はあるのかという質問も飛んだけど、『そういうことはない』とマッチはきっぱり否定していたな。会見中、2人が目を合わせることもありませんでした。 この会見、ジャニーズサイドから圧力がかかって行われたことは紛れもない事実。何も聞かされていない明菜自身が一番驚き、傷ついたでしょう」 思いつめて自殺未遂にまで及んだ明菜一世一代の恋は、こうして悲しい結末を迎えた。そして明菜は、その傷を背負ってその後も生きていくことになる。 加藤登紀子は、「あれは失恋だけが原因ではない」とこう分析する。 「常にトップを走ってきた彼女が、音楽番組への出演が減っていく中で精神的に参っていた部分があったのだと思う」