「失恋だけが原因ではない」中森明菜、絶頂期の不穏と完全復活までのカウントダウン
大ブレイク!! 「歌姫誕生」の舞台裏
明菜ファンの間で今も語り継がれる、歴史に残る名場面がある。 そのひとつが'87年12月30日に生放送された番組『夜のヒットスタジオ スーパーデラックス』。安全地帯with井上陽水の演奏をバックに迫力ある歌を披露する『飾りじゃないのよ涙は』である。 この圧巻のパフォーマンスには、もはやアイドル時代の中森明菜の面影はない。一体いつ、明菜はアイドルから唯一無二のアーティストに生まれ変わったのか。 そのターニングポイントこそ、担当ディレクターが島田氏から藤倉克己氏(74)に変わったタイミングではなかったか、そう田中氏は語る。 「洋楽部のディレクターだった藤倉さんを邦楽部に異動させ、いきなり明菜の担当に抜擢したのは明菜の育ての親といわれた寺林晁さん。藤倉さんは周囲の反対を押し切り、ラテンジャズ界で高い人気を誇っていたピアニストの松岡直也さんに作曲を依頼。こうしてできあがったのが『ミ・アモーレ』です。 従来の歌謡曲では考えられない絢爛豪華な世界観に、デモテープを聴いた明菜は声も出ませんでした。藤倉さんのアバンギャルドな発想が明菜をアーティストとして目覚めさせた、そういっても過言ではありません」(田中氏、以下同) 日本の歌謡界に革命を起こした藤倉氏の斬新な楽曲作りには、秘密がある。 「当時のJポップは、Aメロやサビメロをどうするのか、つまり、メロディー作りから入るのが常道。だからどんなにカッコいい歌詞を書いてもどこか昭和歌謡の匂いがします。 ところが藤倉さんはリズムやコード進行から曲作りに入る。いってみれば、小室サウンドをはじめとする'90年代以降の楽曲作りを先取りしていました。こうした洋楽的な発想が明菜の琴線に触れ、『ミ・アモーレ』以降、2人はタッグを組んで独自の世界を切り開いていきました」 藤倉氏の斬新な楽曲作りは、次の『DESIRE―情熱―』でも遺憾なく発揮される。 「作曲を依頼した鈴木キサブローさんが口にした『Get Up Get Up』のフレーズにピンときた藤倉さんは、このフレーズをイントロに持ってきたら必ずヒットする。そう確信して曲作りを進めました。当時としては画期的としか言いようがありません」 '85年『ミ・アモーレ』、'86年『DESIRE―情熱―』で明菜は2年連続して日本レコード大賞を受賞。しかし本人は、決して満足してはいなかった。 ─もっと心を揺さぶるような歌を歌いたい。 藤倉氏たちは、歌姫・明菜のために数十曲から、時には数百曲の中からシングル曲を選ぶのである。 しかし'87年にリリースされた19枚目のシングル『難破船』は、そうではなかった。